倖せはこんなかたちでやってくる
無意識の所業
氏素性の知れない記憶喪失の男の下へ輿入れしたのが不満だったレオノラは、しかし贅沢な暮らしは好きだった。
湯水のように金を使わせてくれるから、妻に納まっているのである。
でなければ誰が黄色い猿にこの身を触れさせるものか!
妻でいてあげている、と思っていた。
それが思い違いだったのだと知ったのは、妊娠してからのこと。
レオノラは不自由になった生活に、文句をつけまくったのだが、何一つ許してはもらえなかった。
好きな物を食べ、好きな物を飲み、好きなだけ買い物して、好きなだけ外出して、何日も帰ってこないなどザラだった以前。
だが今は、腹の子の為になるものだけを、与えられる。
許せなかった。
しかし、どうしようもなかった。
自分は買われた身なのだと、やっと思い知る。
「妻でいてはくれないのかな?」
夫ディートリヒ・フォン・ロイエンタールの言葉に、逆らうなどできなかった。この極上の生活を手放したくはない彼女には。
父すら飛んできて、生まれるまでの我慢だと言い聞かせてくる。
そうだろう。未だ贅沢をする父は、一番援助してくれる婿を大事にしている。このディートリヒは、レオノラ親子が使う金がささやかなものだと錯覚するくらい稼いでみせるのだから。
腹の子が生まれさえすれば、元の生活に戻れるのだろうか?
レオノラには日に日に疑問符が強まる。
自分に熱愛していると思っていたのに、その目はもうずっと自分の腹にしか向けられなくなったのだ。
自分は入れ物のような気さえする。
綺麗なラッピング。それが自分のようだ。
不満が日に日に積もっていき、ヒステリーがひどくなる。が、そのヒステリーは決して夫に向けられなかった。
怖い。
怖いのだ。
今にも見捨てられそうな感じがして、仕方がないのだ。
薄い氷の上に立っているような心地がした。今にも足元が割れて、落ちていきそう。
そんな気持ちのまま、レオノラは出産をした・・・・
それでなくても不安定になる妊婦、レオノラは平均以上に不安定で、過敏になっていた。そこでの出産。
そこでの、夫の言葉。
「私の愛が生まれたよ!」
会う人会う人に、生まれたばかりの息子を見せるディートリヒは、レオノラに見向きもしなかった。
出産を終えた彼女に、ありがとう、と笑顔で言ったきり、関心をなくした。
あああ、足元が、割れる・・・・
夫の愛は、自分に向けられたものではなかった、と理解するしかない。彼女が生むだろう子供に、全て注がれていたのだ。
許せない。
許せなかった。
彼女から全てを奪った息子が。
手にナイフを忍ばせて、子供部屋へ入ったのは、嫉妬に駆られた末のこと。
そこで初めて、レオノラは生んだ子供の目を見た。
「ひっ」
息を、呑んだ。
左右色をたがえるその目に、嫌悪感が湧き上がる。
化け物に、化け物に、私は夫を奪われた!!
嫉妬ゆえの行動は、この時点で正しい行為となる。
彼女の胸の中で。
「この、化け物!」
声をあげ、隠していたナイフをつきたてようと手を掲げた。
最高級の象牙を彫り上げたように美しい手だと褒めちぎられてきた手が、初めて乱暴に扱われる。
「なんてことを。母親のくせに」
「そんな化け物、私の子じゃないわ!」
どうして分かってくれないのか。
手を掴み、乱暴に振り払ってくれた夫へ、レオノラは訴える。
が、ぶつかった黒い目に、凍りついた。
冷たい、冷たすぎる、その黒瞳に。
二人の声と、泣き出した赤ん坊に駆けつけた使用人たちに、レオノラは取り押さえられた。
「君の子でないなら、もういいよ」
泣き喚く赤ん坊を大事そうに抱くディートリヒは、彼女へ目もやらずに言い放つ。
もう言葉しか与えない、との態度だ。
「レオノラ、レオノラ、戻りなさい」
部屋へ、だと思った。
「君の家へ」
「なっ」
思わず飛び出した声は、言葉にならず。
かしずいて当然だった使用人が、彼女を不用品のように運び出す。
「わ、私、は、あなたの妻よ!」
廊下に出されて、やっと声が言葉になる。
「私はここの女主人よ、放しなさい」
使用人に言っても、誰も聞いてはくれない。扱いはもう、危険人物を放り出す、それだ。
誰の目も、犯罪者を見るものだった。
実家に戻された彼女は、父親から罵倒された。
跡取りを生んで安泰だと思った矢先の不始末なのだから、当然なのだが、レオノラにとっては憤まんの極み。
「あれは化け物なのよ。化け物が私から全てを奪ったのよ!」
訴えても、実家の誰も聞いてはくれず。
それどころか、自室から出してもらえなくなった。
ヒステリーを上げ続けた彼女の前に、いつの間にか医者がいた。
病院に入れられそうになって、レオノラは飛び出した。部屋の、窓から。
レオノラの飛び降り自殺は噂となり、ロイエンタール家にもひそやかに充満した。
娘を決して屋敷から出さないかわりにと、離婚はしないでくれと伯爵家から懇願されたディートリヒは、醜聞は立たないほうがいいと受けたので、彼女は未だロイエンタール夫人だったのである。
実家に戻された若奥様でも、自殺となるとメイドの口はささやいてしまうものらしい。
それを聞いてしまった当家の一人息子は、ひどくショックを受け、父に訴えたのである。
「とうさま! わたしをとうさまの『おくさま』にして!!」
どのような意味でショックだったのか、よく分かる訴えだった。
おじいさまにおばあさまがいるように、とうさまに奥様がいたのがショックだったオスカーは、泣きそうな顔でねだったのである。
「おやおや、とうさまの『奥様』になってくれるのかい。嬉しいねぇ」
本当にディートリヒには嬉しいプロポーズであった。
「結婚式をしよう、オスカー。とうさまの『奥様』にちゃんとなっておくれ」
その言葉はまことに正しかった。
ディートリヒの養母イングリットが悪乗りしたのもあったが、そのままごとはレオノラと挙げた式より華やかなものになったのである。
交換された指輪すら、レオノラに与えられたものとは比べられなかった。
指輪の内側に「私の愛」と刻まれていたのだ。
日付のみだったレオノラの指輪とは、比べられるはずがない。
オスカーがレオノラから奪ったのではない。
レオノラはオスカーを取り出すための、容器なだけだった。
END
※チェシャ様よりのメッセージ
なんというか、レオノラさん、悲惨・・・・
ディートおじさまに目をつけられたばっかりに。
ま、オスカーへの暴挙がなくても、追い出される運命だったんですけどね。オスカーが絶対とうさまの奥様の存在を許すはずがないので。ええ、息子に「とうさまの『おくさま』はわたしがなるんだから!」と言われて追い出されていた・・・・
それよりはマシか!(えっ)
結婚した妻へ贈った指輪の扱いは、一緒だと判明。だって同じ人が贈ったのだから。
でも日付のみって、あなた・・・・
てなわけで、チェシャ様のすんばらしぃ〜文章に感動した方は、チェシャ様の家「夜の迷いの森」に感動を伝えに行こう! Byりほ