倖せはこんなかたちでやってくる

カサエルのものはカサエルに

意味=物事は本来あるべきところに戻すべきであるということ



「おはよう、オスカー」
 目が覚めた時、彼はよく分かっていなかった。
「とうさま、だぁ」
 分かっていなかったゆえに、ふわりと笑って、抱きついて寝ていた相手の胸になつけたのだ。
 が、それも数分のこと。
 あれ? 確かとうさまではなくて、ヤン・ウェンリーが・・・・
 がばりと顔をあげて、間近にあるよく見知った顔をまじまじと見入る。
「おや? お目覚めが早くなったねぇ」
 彼は笑っていた。懐かしい笑顔で、包み込む黒瞳で。
 その、他の誰も持たない、宇宙のように果てない黒い瞳で。
 オスカーの理性が叫ぶ。
 そんなことありえるわけがない、と。
「と、さ、ま?」
「なんだい、オスカー」
 理性だけが、叫ぶのだ。
 感情も感性も、そして体の全てが、会いたかった父親だと認めているのに。
「・・・・そ、んな、はず・・・・」
「どうしたのかな?」
「あるわけ、ないだろうがぁ!!!」
 今のところ、理性に従うことにしたオスカーは、『ヤン・ウェンリー』を突き飛ばした。ベッドからコロンと落ちた相手は、痛いなぁ、とさすりながら起き上がる。
「とうさまのはずがないとうさまのはずがないだってそのままで戻るはずがない」
 耳をふさぎ、目をつぶり、シーツに額を擦り付けて、自分に言い聞かせる。こんなことを受け入れて、やはり違ったなんてなったら、もう二度と自分を保てるはずがない。だからこそ否定する。
 なのに。
「そうだねぇ。私にしてみれば一ヶ月ほど前のことなのに、いつの間にか20年過ぎていたそうだから」
 優しい父の声が、穏やかに説明してくれる。昔と変わらず、分からないことをなんでも教えてくれていたように。
「長い散歩になったね。ごめんね、オスカー。さびしがらせて」
 そうだ、父は一人散歩に出かけて、そのまま帰ってこなかったのだ。20年も。
「怒っているだろうね。もうとうさまの『奥様』にはなってくれないのかな?」
 はっと顔を上げると、困った表情で頭をかく姿が前にあった。
20個も『結婚指輪』を買ってあげていないから、捨てられても仕方がないかな」
 幼き日、父の『奥様』になるのだと言い張っていた自分を思い出す。にこやかに喜ぶ父は、4歳の息子のたわ言を叶えてくれたのだ。ままごとの結婚式を、しかし普通の挙式より豪華に行ない、そして毎年結婚祝いだと言っては旅行に出かけ、その先で石を選んでは『結婚指輪』を作ってくれた。
 二人、互いに、毎年新しい『結婚指輪』をはめてあげるのが、約束で儀式だった。
「オスカー、どうなんだい?」
 困った顔をして、伸ばしてくる手。
 自分の頭をなでようとするその手に、見覚えのある輝きを見つけて、ロイエンタールは掴んだ。
 21年前に一緒に選んで、はめてあげた指輪が、真新しい輝きを放つままにそこにあって。
「あ・・・・」
「オスカー」
「・・・・あ、ああああああああっ!」
 声が、叫びとなって、喉からほとばしる。
 両目からあふれる涙は、自然のままにシーツに落ちる。
「ごめん、オスカー」
 いとしくていとしくて憎んだ人が、今しっかりと抱きしめてくれた。
「とおさまああああ!!」
 さびしくて悲しくてつらくて・・・・
 別人になることで封じてきた心が、今開放される。
「ごめん、オスカー」
「私を捨てないで私を忘れないで私を愛していて私から離れないでいてぇ!」
「愛しているよ、私の愛」
 泣いている顔のあちこちに唇が落とされる。嗚咽をこぼす唇を何度もついばまれる。
 それはとても父親のする行動ではない。
 だがオスカーには、それが父親のいつもの触れ合いであった。
 理性も、父親だと、認める。
 他の誰が、そう呼ぶか。
 私の愛。
 父はオスカーが生まれる前から、そう呼んでいたという。妻が妊娠したと聞いたときから、生まれてくるのは息子だと言い切り、私の愛が生まれてくると口にした。
「とうさまとうさまとうさま」
 涙が止まるまで、オスカーは呼び続けた。








 どんよりとした気持ちとはこういうもの、なんだろうなぁ。
 ついつい内心ぼやくのはケスラーだ。
 待っていたはずなんだけどなぁ。でもどよ〜んとするなぁ。
 目の前には、いちゃつく親子。
 いや、現在、とても親子には見えない。昔だって親子とは思えないべったりぶりだったが、外見年齢は確かに親子だった。でも今では、外見すら親子とみなせない。
 元から血縁関係があるのかと疑うくらいに、似てなかったものなぁ。
 今ではもう、どこから見てもバカップルだ。
「とうさまぁ」
 着替えに離れていた父親が傍に来ると、甘えた声を出してしがみつくように抱きつくオスカー。
 なんだか、幼い子供がしているのと、美貌の青年がしているのでは、破壊力が違う・・・・
「またさびしい思いをさせてしまったね」
 そう言うヤン、もといディートリヒ・フォン・ロイエンタールは、やに下がっている。でれでれと顔が崩れている。
 しめしめと喜んでいる狼にしか見えないのは、なぜだろう・・・・
 なんというか、今すぐにでも「危ないよ、お譲ちゃん。下心満載の男なんだから近づいてはいけません」と警告したい。
 したいが、した途端に二人からはじき出され、追い払われるのは見えているので、ぐっと我慢のケスラーだ。
「ああ、とうさまの匂いだぁ」
「そうかい?」
 間違いなくかぎ慣れたオーデコロンに、ほんわり表情を緩めるオスカー。
 抱きしめて、なでなでと頭に手をやるディートリヒは、控える老人へ向いた。
「ありがとう、ハンス。フランツも長くたつのに、可愛いやつだな」
「旦那様は決してディートリヒ様が戻ってくることを諦めたりはなさいませんでしたから」
 この部屋には現在、四人いた。
 ロイエンタール親子と幼馴染みのケスラー。そしてこの老人、ハンス・シュテルツァーだ。
「フランツおじ様が?」
 いとしい父の胸の中で、初めて父以外に意識を向けたオスカーだったりする。
 それを認めて、ハンスは満面の笑顔で頷く。
「ええ、ええ、旦那様は、ディートリヒ様が他の何を捨てても、オスカー様だけは捨てるはずがない。元の所へ戻るならオスカー様も連れ行くはずだ、と言い張って」
「そう、フランツおじ様が・・・・」
 くすぐったそうに、花がほころぶように、オスカーが笑う。
 うわぁ!
 ケスラーの心にも花が咲いた。しかも一面満開に、だ。
 昔のオスカーが、そこにいた。彼の可愛いオスカーが、そこに戻っていた。
 どんな女の子より可愛くて綺麗で、そして純粋すぎたオスカーが。
 昨日とは違いすぎるオスカーであるのに、ケスラーとハンスは微笑ましいと見る。
 くすっ、とディートリヒからも笑いが漏れる。
「彼らしいなぁ。さすがよく理解してくれる我が友だ」
「さて、お支度もお済なら、その旦那様とお話をぜひ」
「ああ、喜んでさせてもらうよ、ハンス」
 断るはずがない。なんといっても、彼ディートリヒが戻ったと知らせた途端、首都オーディンにいるのも関わらず、この星にいた家令にディートリヒの身の回りの物を届けるよう命じた相手だ。
 いくら大貴族とはいえ、行方不明になるまでは互いの家に身一つで泊まれるよう身の回りの品を準備していた仲だったとしても、それを不在のまま20年続け、しかも娘が違う星へ移住しただけなのに、そこにまで準備させていたのだ。ただの仲ではない。
 オーディンにいる相手に連絡をした当人ケスラーであっても、その行動には驚かされたものだ。この家令のハンスが「ディートリヒ様の着替え他、身の回りの品をお届けしたく」と連絡つけてきた時は、買い揃えて持ってくるのだろうと考えていたのだが、ずっと準備されていたとあっては、脱帽する。
 ただの病室ではない、将官用にあつらえられているので、星間通信も可能だった。ハンスが本家へつなぐと、待ち構えていただろう相手が現れた。
「おおお! ディートおおおおおお!!」
 涙ぐんだ男が、いた。
「・・・・ふけたねぇ」
 しみじみ言う男が、ここにいた。
「そう言うかね、久しぶりにあった友へ」
「私には一ヶ月ぶりなだけだからね」
「だが私には20年ぶりなのだよ!」
「はは、そうらしいねぇ」
「笑ってすますか」
「すますよ」
 にっこり笑顔で一刀両断。
「だって、何が変わっていると言うんだい? 君は私を慕ってくれている。オスカーは私を愛している。ほら、何が違う?」
「・・・・年齢」
 フランツはそれでも言いたいらしい。
「だねぇ、君、ふけたねぇ」
 そして話は元に戻る。相手が悪い。
「年下だったくせに、私より上になるなんて、生意気な」
 笑顔で言うから、確実に冗談だ。・・・・冗談の、はずだ。
「ああ、もう、無事でよかったよ」
 この話題はやばいと悟ったらしい。
「フ、フランツ、おじ、さま」
 たどたどしく間に入ったのはオスカーで。
「ああ、オスカー、良かったねぇ、おとうさまが戻られて」
「は、はい。お、おじさま、も、信じて、くださっていて・・・・」
 感涙したらしく、またもオスカーの目から涙が落ちた。
 フランツははっとする。
「おお、おお、オスカー、私は信じていたよ、きっと戻ると」
「あ、ありがと・・・・」
 とうとうディートリヒの胸に顔をうずめた。
 通信先でもジーンと喜びをかみ締めている。
 まぁ、そうだろうなぁ。ずっと避けられていたオスカーから言われたら。ああ、これも20年ぶりかぁ。
 オーディンとこの部屋で喜びに泣く者がいた。
「もう、本当に君たちは可愛いねぇ」
 喜びに笑う男が、ここにいた。
 どれだけ心配させたか、分かってんのかよ、あんたぁ!!
 そう言いたい。が、ぐっと我慢したケスラーだった。








 帝国の貴族服を着こなして、にこやかな顔で、ヤン・ウェンリーのはずの男は皇帝の前に立つ。
「初めまして、ラインハルト皇帝陛下。ディートリヒ・フォン・ロイエンタールと申します」
 見事な帝国語で口上し、優雅とは程遠いが滑らかな動きで宮廷のしきたり通りのお辞儀をする。
 ごくり、とラインハルトの喉が鳴った。
 ヤン・ウェンリーがふけただけ、ではなかった。1年前に会ったヤン・ウェンリーとは明らかに違った。
 そうだろう、芽の出ない学者風情が漂う青年と、大貴族とすら渡り合う名高い商人貴族が、同じはずがない。富の悪魔『マモン』と呼ばれた、伝説とすらなっている大商人だ。その名は、同盟領にまでとどろいたと言われる。
「ヤ、ヤン提督、何を言われて」
 後ろに控えている者たちから声が飛んだ。
 ディートリヒが不思議そうに振り返ると、この1ヶ月で見慣れた者たちが集団でいた。
「ああ、君たちにそう呼ばれて、そのようなつもりになっていたが」
「な、なにを!!」
 驚愕する彼らの言葉は、しかしディートリヒが目を細めると、凍りついたように途絶える。
「いい加減にして、くれないかな? 私の可愛い息子が不安になっているだろう」
「と、とうさま」
 横にいたオスカーが、彼の袖をぎゅっと握った。
 幼馴染みたち、特にケスラーは、さすが皇帝の前では抱き合うのをやめてくれたか、と安堵した。
 その幼馴染みたちから一人、すっと前に出る。
「ここに、オスカー・フォン・ロイエンタールが父、ディートリヒ・フォン・ロイエンタールの資料がそろっております」
 フェルナーだった。
「ロイエンタール家の主治医から提出された医療記録、及びDNA鑑定の結果、間違いなく彼はディートリヒ・フォン・ロイエンタールと証明されました」
「こちらもウェンリーとDNA鑑定をしたわ!」
 たまらず、叫ぶよう訴えたのはヤン・ウェンリーの妻フレデリカ。
 オールバックぎみに整えている前髪を撫で付けたフェルナーは、くすっと笑った。人当たりよい笑顔のはずなのに、フレデリカへは違う印象を与える。
「皇帝陛下、彼には帝国領でも特定の星域にしか発生しなかった風土病の免疫細胞がありました。しかも根絶やしにされたので、以来35年間発病の記録は一切ありません。もちろん、その病原菌が同盟領にも発生した、というなら別ですが」
 そして、フェルナーの目は同盟人の一団に向けられる。
「それと、できれば、イゼルローン共和政府には、彼が保護されたおり身に着けていた品を提出していただきたいのですが」
「なぜ!」
 叫ぶフレデリカを止めたいが、この一団で一番地位が高いのは彼女であり、公式の場で彼女を取り押さえるのは、できればしたくなかった彼らである。名を小さく呼び、落ち着かせようとしても、目立ってできなくては、効果もない。
 フレデリカに次いでの地位にいるユリアン・ミンツならまたどうにかできただろうが、その彼は呆然と突っ立つだけで役には立たない。ヤンの冷たい目と『可愛い息子』の言葉は、それだけの破壊力があったようだ。
「ディートリヒ・フォン・ロイエンタールは富豪貴族。身にまとう物は全てオーダーメイドなので」
 もちろん今も全てが彼のためにあつらえられた一点物である。
「そんなもの!! 彼がヤン・ウェンリーであるのは、妻であるわたしが分かっているわ!!」
 フレデリカの叫びの中、かすむような声がした。
「オスカー?」
 ディートリヒの声だ。
 掴んでいる手からひどい震えを感じ、息子を見れば、顔色は紙のように白かった。
「ウェンリー、いったいどうしてっ」
 駆け寄ってきたフレデリカ。
 しかしディートリヒは、そんなことは気づいてもいない。
 息子の様子しか、彼には認識しなかった。
 震えはひどくなり、歯が鳴りだし、そして・・・・
「お願い、ウェンリー」
 こっちを見て、と手を伸ばしてきたフレデリカ。
「・・ち・・・・ち、が・・・・」
 歯が震え鳴り、ろれつが回らず、目がうつろとなり・・・・
「オスカー、どうしたんだい」
「わたしを見てっ!」
「ち、がああああああ!!」
 いっそ幼いほどの、悲鳴だった。
 ロイエンタールの両手が回り、しがみつく。
「とらないでとらないでとうさまをとらないでつれていかないでとうさまとうさますてないでわすれないでいなくならないで」
 ろれつが回らなかったのが嘘のように言葉が途切れなくあふれていく。
「オスカー!!」
 寂しさ悲しみ不安。
 全てが詰まった言葉をほとばらせるのに、全身を震わせるオスカーはうつろな目を曇らせて誰も映さない。
 とっさ、フレデリカを振り払ったディートリヒは、息子の名を何度も呼び、抱きしめ、なだめにキスをする。
「ウェンリー!!」
 悲愴な女の声がする。
「やーやーやーやぁぁぁああああとうさまあああいかないでぇえええええ」
「とうさまはここにいるだろう、オスカー」
「ディートおじさん!」
 呼ばれ、肩を掴まれて、ディートリヒはケスラーをやっと認識した。
「医者の元へ」
 言われ、どうすべきかやっと彼は判断できた。
「行かないで、ウェンリー!」
「うるさいって言ってるだろうが!」
 近寄らないよう取り押さえられるフレデリカと、取り押さえるフェルナー。
「とらないでええええ」
 壊れたように叫ぶオスカーに、しかめるかにディートリヒの目が細まり。
「ブルーノ!」
 鋭い声が、彼から突き出た。
「黙らせて!」
 単純な分、明快な言葉だった。が、それが誰に下されたのか、その場にいた者たちは戸惑う。
 突然開いた扉。飛び込んでくる人影。
「レッケンドルフ?」
 それはオスカーの副官だった。彼は猟犬のように走り寄ると、フェルナーが取り押さえる女を殴りつけた。
 ざわり、とイゼルローンの面々が騒ぎ、駆け寄ろうとするのを、レッケンドルフは鋭い眼光で止めてみせる。
 殴ったのではない、口をふさいだのだ。が、殴りつけるほどの勢いでされたことだ、ただではすまないだろう。
「旦那様、お下がりください。医師の手配はしてございます。この場はブルーノめにお任せを」
「頼んだよ」
「はっ」
 イゼルローンの面々だけでなく、ディートリヒのほかは動けなかった。
 彼、ブルーノと呼ばれたエミール・フォン・レッケンドルフの右手はフレデリカの口を覆い、残る左手は首を掴んでいた。
 左手に力を込めれば、窒息死。
 右手を動かせば、首の骨。
 どちらの手でも、女の命をもぎ取れる。
 場は凍り付いていた。
 そこに、ぽつり、と落ちる声。
「ブ、ブルーノ、て」
 震える指で指し示し、震える声で名を呼ぶケスラー。
「う、うそだろう、そんな情報はかけらも・・・・」
 続いて気づかなかったショックもいちじるしいフェルナーが驚愕の目を向け。
 カツン、と靴音を鳴らして、この場に入ってきたバイエルラインが、人の目を暴力的に奪っていく。整った顔をした男だと言われていたが、今これほど感じる魅了する力を、彼はどうして隠していたのか。
 ステージに立つモデルのようなしぐさで、注目の二人の前に立ち止まったバイエルラインは、しみじみレッケンドルフを眺める。
「気づかなかったなぁ。顔もだけど、動作も、別人。いい仕事しているね、ブルーノ・クロンベルガー」
 表情を消しているレッケンドルフに、ニィっと笑ってみせるバイエルライン。
「でも、甘くなったね」
 ふっとレッケンドルフの手が緩んだ。
 直後、フレデリカの腹にバイエルラインの蹴りが入る。
 ざわり、と荒れる周りの気配。
「前なら相手に意識を残したりしなかったじゃない、ブルーノ」
 素直に蹴らせてくれたが、過剰なダメージがかからないよう手をすばやく離した男を冷たく見下す。
「状況にふさわしい対応だ」
「どこが?」
 そういいながら、倒れ付すフレデリカの頭を踏みにじる。
「旦那様がどうされたか、教える手間が省けるだろうが」
「おー」
 パチパチ、とバイエルラインは手を叩く。
 彼女を助けたいとするのは帝国軍人にもいた。あまりにも女性への態度ではないし、彼女は曲がりなりにも政府のトップだ。
 が、別人のように魅了を放つバイエルラインと、未だ闘気をまとうレッケンドルフに、近づけない。
「やはりブルーノ。猟犬の一族の名に恥じないねぇ」
「それより、仮面はいいのか?」
「もういいんだよ、オスカーは元に戻ったからね」
 頭から離れた足は、下ろした場所が場所で。
「ぎぃ、がぁああ」
「ミセス・ヤン!」
 左手を踏み潰された彼女に、イゼルローンの面々は飛び出す。
 その先頭はシェーンコップだ。やっと彼女の命が開放されたと認め、取り戻す為に走る。
 今なら、彼ならばこの二人の男を叩きのめすことはできた。が、皇帝の前で、こちらが取り戻す以上のことはできないと、判断してしまう。それこそ戦闘行為だ。
「カールぼっちゃん」
 ため息のようにレッケンドルフは呼びかける。
 小粋に肩をすくめたバイエルラインは前を向くと、優雅に皇帝へ敬礼する。
「お見苦しいところをさらし、申し訳ありません」
「なぜだ」
 この行為の意味を、ラインハルトは尋ねる。あまりにも目に余る光景だった。
「なぜ? そこの女がいつまでも間違いを認めなかったがために、大切なオスカーの精神を揺るがしたのです」
「だがやりすぎだ、ばか者!!」
 怒鳴ったのはケスラー。
「見逃せ、と?」
「お前はいつもやりすぎる!」
「オスカーのためなら、いつでもこの身をささげるとも」
「無駄にね」
 クスクス、と笑って言うフェルナー。
 この年下の幼馴染みたちは、いつも頭痛のタネであるケスラーは、どうとりなすかと頭がいっぱいになった。
「オスカーになんらかの傷が残ったならば、報復すればいいだけだろう?」
「お前はもう何もするな」
 やめてくれ、と叫びたいケスラー。
 どうしてこいつらはオスカーにほれたんだよ。どうしていつまでもまとわりつくんだよ。いい加減諦めろよな、ディートおじさんがいる限り無駄なんだから。
「そういえば、ロイエンタールはどうしたのだ?」
「オスカー・フォン・ロイエンタールは重度の父親依存症なものでして」
 そうとしかいいようがない。
「ああ、そうだ、オスカーだ」
 皇帝の言葉に思い出したかにきびすを返そうとしたバイエルラインの首根っこを、とっさケスラーは掴んだ。反対側の手にはフェルナー。
 ああ、この体勢も20年ぶりだ。
 いやな感慨である。
「後始末を押し付けるな、てめぇら」
 声が震えても、仕方なかろう。
 その横を平然と通り過ぎようとするレッケンドルフ。
「待て、あんたも待て」
 昔の口ぶりでケスラーは呼び止めてしまい。
「後始末はそちらで」
 振り向きもせず、そう返してくれるのも、昔のままで。
「俺の任務はオスカー様の安全確保だ」
「うわあああ、この猫っかぶり仮面やろう者どもがああああ!!」
 元からにこやかに悪辣なフェルナー。軍人として清廉潔白に振舞っていたバイエルライン。そして忠実で献身的な副官と振舞っていたレッケンドルフ。
 何より、心を守って悪ぶっていたオスカー。
 確かに彼ケスラーの周りには、そういう者がそろっていた。
 でも一番恐ろしいのは、猫もかぶらず、仮面もない、素のままで悪魔と呼ばれるディートリヒだろう。
 ケスラーの雄たけびは、さすがに皇帝にすら、同情の目をさせていた。








 エミール・フォン・レッケンドルフは確かに存在する。
 だが現在ロイエンタールの副官である彼は、その人物の顔と戸籍を借り受けている偽者だった。
 本来問題になる詐称は、しかしそれを行なったのが国務尚書フランツ・フォン・マリーンドルフ伯であったので、問題にされなくなった。
「軍に入った親友の息子を守るために、必要な処置だった」
 きっぱりと理由を言われて、ラインハルトは罪に問えなくなったのだ。
 ロイエンタールが12歳から周囲を拒絶していたゆえに、忠実な護衛を傍につけるための画策だというのだから。
 子供時代、何年も会っていたというのに見破れなかった偽装を、非常に悔しがるフェルナーと、わずらわしがるバイエルライン。そしていや〜な気持ちになるケスラー。
「おまえたちが未熟なだけだ」
 口調も以前に戻って無礼になったレッケンドルフことブルーノ・クロンベルガーは、とどめを刺す。
「旦那様は一目で見破ったぞ」
「そりゃあの人悪魔だから」
 幼馴染み3人は口をそろえて返答してしまう。
 その悪魔は、ヤン・ウェンリーではなくディートリヒ・フォン・ロイエンタールだと認められていた。帝国だけ、であるが。
 認めるしかない、確たる証拠と、何より国務尚書が「親友が戻ってきた」と小躍り状態で受け入れたのだから。
 国務尚書フランツ・フォン・マリーンドルフは、急いでオーディンを発ったという。もちろん一日も早く親友に再会する為だ。
 イゼルローンの面々も、受け入れざるを得なくなっていた。
 本人の拒絶と、何より、目の前に広がる光景に。
「ディートリヒ様、よくぞお戻りに」
 声を震わせ、彼が差し出した手に触れた男は、感涙する。
 これはこの一人だけの行動ではない。彼の前にもいたし、後ろにも列をなして待ち構えていた。
 伝説の男『マモン』の帰還を確かめ、挨拶をする為に、帝国人フェザーン人が軍部に押しかけ、こうして列をなした。
 まるで王の謁見だ。帝国だから皇帝だろうか?
 それらを受けるディートリヒは、今日も上品な身なりをし、威厳を持ってあしらっている。
「おじさん、そろそろ時間ですよ」
 警護についているケスラーが時計を一瞥して告げる。途端、列をなす者たちから惜しげな声が漏れた。
「ああ、オスカーが目を覚ます前に戻らないとね。皆、よくきてくれたね、ありがとう。では失礼するよ」
「はっ、ディートリヒ様。オスカー様によろしくお伝えを」
 彼らはそろって返答した。まるで練習したように。
 いや、練習する必要がないくらい、これは繰り返されてきた。ディートリヒがどれだけ息子を溺愛しているか、知らぬ者はここにはいない。
 発狂したかに取り乱したオスカーは、現在精神科医がつけられている。20年間押さえつけていた物があふれ出た途端の動揺に、ひどく不安定になったのだ。
 なにより、医師がつけられたのは、たった一日で変貌した精神状態にある。
「とうさまあああ」
「ああ、間に合わなかったか」
「あちゃあ」
 ディートリヒとケスラーは残る距離を走ってつめた。
「とうさま、どこ行っていたの!!」
 扉を開けるなり、飛びついてくるオスカーは、涙をこぼしていた。
「ごめんね、お客様に会っていたんだよ」
「ひとりにしないでおいていかないで」
「おいていかないよ、ちゃんと戻ってくるよ」
「とうさまとうさま」
「ほら、お客様がオスカーにと、プレゼントをくれたんだ」
「とうさまがいればいい」
「そんなことを言わないで、開けてごらん」
 ぐずりながら、言われるままに渡された小さな箱を彼は開ける。
「石! 綺麗なペリドット」
「ああ、今度はペリドットにしようかと言ったんだったなぁ。彼は覚えていてくれたのか」
「今度?」
「今年の指輪だよ」
「わぁ」
 毎年の楽しみにしている『結婚指輪』の話に、嬉しげに宝石を光にかざす。
「夫婦の幸福、という意味があるんだよ、ペリドットは」
「え、夫婦の?」
「そう」
 頷くと、ディートリヒは石を掲げる手をそっととり、指先に口付けた。
 目も当てられない、とそそくさと部屋を出て行くケスラーと傍についていた医師。
「あ〜、オスカーの様子は、その、まだ20年前?」
 この医師すら昔から付き合いのある相手で、こうしてフェザーンに連れてきているとは、どれだけオスカーの為に準備していたのか考えるだけで眩暈がする。
「精神状態は旦那様がいなくなる以前のままに。記憶は、失ってはおられないのは確かなのですが」
 医師に苦笑が浮かぶ。なんというか、現金なまでに以前のままの甘えっぷりなのだ。依存症はあいにくと進んでしまったようなのだが。
 母親が精神を病み、自殺しただけに、父親に依存症が見られるオスカーは、子供の時分から精神科医が主治医についていたりした。
 ケスラーの目からすれば、外見すら若返っていて、それに同意見は多い。さすが12歳当時にままではないが、とても成人男子ではない。言動が幼すぎるからだろう。
 そう、オスカーは、12歳の時は、そんな年齢と思えないくらい幼い言動だった。父親が甘やかし放題のせいだ。
 その上父の『奥様』になると言って、ドレスを好んで着ていたし。
「あ〜、オスカーは、服装、以前に戻りそう?」
「それは・・・・」
 医師の苦笑は深まるばかり。
 今は手元にないが、ロイエンタール家の者やマリーンドルフ家の者が気を利かせたりしたら、それは目も当てられない光景が、とても危ない光景にエスカレートするのだろう。
「父親のケアもしろ」
「それは」
 苦笑が微笑になる。
 いや、言ったケスラーも分かっている。あれは確信犯だ。
 今になって分かったのだ。
 元ヤン・ウェンリー、現ディートリヒ・フォン・ロイエンタールは、計画的に子供を作り、計画的に育ててきた。
「いつ、ほれたんだろうなぁ・・・・」
「それはもう」
 ぽつり、とこぼしたケスラーに、医師が返事をしてくれる。
「生まれる前から、でしょう」
「あああああああ」
 思わずケスラーは頭を抱えた。
「誰か止めてくれぇ」
「誰が止められるのでしょうねぇ」
「ええい、俺にとどめを刺すんじゃないっ」
 そういえば、オスカーの『奥様』発言を、周囲は皆そろって微笑ましいと見ていた。
 今、元に戻ったとしても、昔に戻ってよかった、と祝福しかねない。
 ああ、しかねないじゃない、絶対する!!
 自分の父親ですら、祝電打ちかねないのだから。
 もちろん『おめでとうございます、オスカー奥様』との文面だ。
 そしてそれは、現実となる。








 ウルリッヒ・ケスラー。
 オスカー・フォン・ロイエンタールの最初の友達であり、その縁から父親がディートリヒの顧問弁護士になって、家族ぐるみの付き合いをしている。
 オスカーがぐれて、軍人となると言って幼年学校に飛び込んだおり、あわてて士官学校に受験したが、その折は父親が率先して準備してくれたものである。もちろん、オスカー様をお守りするのだ、と発破かけて。
 その父は、オスカーを奥様と呼ぶ筆頭だったりした。息子には頭痛物の現実だ。
 常識ありあまる彼の、一縷の望みはオスカーの祖母イングリットであるのだが、嬉々として幼児のウェディングドレスを作ったし、『奥様』ごっこのドレスだって用意する祖母である。一縷の望みは、とてもはかない。








 カサエルのものはカサエルに。
 帝国のものは帝国に。
 そう歴史家が表現したこともある一つの史実。
 ヤン・ウェンリー帰還誤認騒動、と言われもするこの出来事の顛末は、帝国の高級店の一点もの、しかもロイエンタール家の当主の為にあつらえられた物を身にまとって現れたのだから帝国の者だ、との判断で終えた。
 ヤン・ウェンリーが、どうしてオスカー・フォン・ロイエンタールの父の品と同じものを作り、身にまとって戻ってくる必要があるというのか。
 誰もが感じることである。
 必要、ではなく、必然、であったのだが。
 誰も時間を越えたなど、考えもしなかった。








「カール、ありがとう」
 それはディートリヒがバイエルラインと二人きりにあった時のこと。
「珍しいですね、あなたが感謝するとは」
「そんなことはないだろう? それに、本当に感謝しているんだよ。彼女の左手のことは」
 オスカーに気づかれる前に始末できてよかったと、己がプロポーズし贈ったくせにして胸をなでおろすディートリヒである。そこには昔の妻への哀れみすらなかった。ただわずらわしさがあっただけだ、彼女の指に光る『物』へ。
「あなたの『結婚指輪』を他の者がはめていいわけがない」
「君の愛情は、本当に広いねぇ」
「手に入らないからと、愛するのをやめるなんて、愛ではありませんよ」
「私は耐えられないよ、手に入らないなんて」
「耐えるしかないでしょう。手に入らないのだから」
 富の悪魔と呼ばれる男は、にこやかに微笑む。
「それに可能性はなくもないし」
 軍に入るまでトップモデルとして稼いでいた男が、ずいっと顔を近づける。
 魅了を発する顔が迫るように近づくのに、それこそ満面の笑みを浮かべる。
「ずっとあなたとオスカーを見てますから」
 くすり、と満面の笑顔から笑い声が漏れる。
「隙など与えはしないよ?」
 第一そんな育て方をしてはいない。
「絶対など、この世にはありませんから。それに俺、若いですし」
 『見せる』ことを赤ん坊の頃から呼吸するのと同じように知っている彼は、その経験をフルに使って最高の笑顔を作る。
「私は、奇跡を作ったのだよ」
 分かっている。この20年、それを痛感した。
 オスカーは捨てられたって置いていかれたって、父親のことしか考えなかった。たとえそれがマイナス感情であっても。
「・・・・・・・ああ、くそっ」
「悪態つきなさんな、綺麗な顔がもったいない」
「あなたと張り合えないなら、くそだ、こんな顔」
「顔の問題ではないからねぇ」
「ちくしょう」
「愛するのはかまわないよ、君なら」
「お墨付き、ありがとうございます、いつも!!」
 一度だって勝てやしない!
 悪態つくバイエルラインだった。








 ディートのものはディートに。
 戻ってきたのだ。








 フェザーンに降り立ったマリーンドルフは二人の女性と一人の赤子を連れていた。赤子はもちろんオスカーの子で、双子と生まれながら母に連れて行かれなかった兄の方だ。女性も当然、その関係者で。
 車椅子を使うイングリット・フォン・ロイエンタールの姿に、ディートリヒはひざまずいて親不孝ぶりに許しを乞い、オスカーは会わないどころか関心すら向けなかった自分のおろかな行動を恥じた。
 ほとんど20年ぶりに会ったオスカーの、変わらぬ幼い言動にわずか動揺したものの、イングリットは変わらぬ二人の様子へ、涙ぐんで喜ぶ。
 そんな三人の中へおずおずを入ってきたのは、アンネローゼである。オスカーの、未だ認知しない双子の兄を抱いて、彼らの輪に入る。
 そう、アンネローゼは双子の一人の名付け親となり、乳母の役すらしていたりした。そしてオーディンでは、イングリットと仲良く暮らしていたというのだ。
 もう一人の孫のよう、とイングリットに言われるアンネローゼは、双子を育てる為にロイエンタール家に滞在を続け、弟をどぎまぎさせるのであるが、ラインハルトの予想とは違うことが起こったりした。
 ラインハルトはディートリヒかオスカーと恋に落ちるのではないかと心配したのだが、相手が違っていたのである。
 ロイエンタール家周辺で唯一といっていい常識人、ウルリッヒ・ケスラーと恋仲になってしまうとは、誰も予想しえなかった。
「まぁ、なんというか、オスカー並みに可愛いなぁ、と思えたのが彼女しかいなかったというか、そんなことで」
 デレデレとやに下がるケスラーは、ラインハルトとの攻防戦に明け暮れることとなるのだった。

END

フォームの終わり



ひどく間違えたものを書いた気がする・・・・
ディートおじさまがイゼルローンの面々を切り捨てるシーンを書くはずだったのに、親子いちゃいちゃシーンになってしまった orz
どうにかしようとした結果、フレデリカ一人に火の粉が(><)
はめいていた結婚指輪が変形するほど踏みつけるって、バイエルライン、あんたって。
幼馴染み三人組の設定など書きたいですねぇ、文中そこまで書ききれないし。
副官レッケンドルフの設定など、「かかえきれない愛を」とダブってしまっている事実は、あちらをその部分書いていないので帳消しということで(^^;)
猟犬の一族といわれるくらい要人警護を生業にしているのが「クロンベルガー」家です。
ブルーノは生粋のクロンベルガーっこで、オスカーを生涯の主と認定してます。なので、大貴族のフランツおじさまに、軍人になるオスカーの傍にいけるよう頼みにいって、別人に成り代わったりしました。いや、クロンベルガー魂の真髄ですねぇ。
して、最後に、ケスラーとアンネローゼ様。ロイエンタール家に頻繁に出入りする男を考えたら、白羽の矢がケスラーに。
マリーカ嬢との恋は、なのでこの話ではなくなりました。
ま、そういうこともあるさ!


結婚指輪について。
一般的にはシンプルに金銀プラチナで作られてます。その分婚約指輪に見事な宝石が使われるそうですが。フレデリカはシンプルなプラチナでした。
でも宝石をあしらった結婚指輪もあります。気になったのでネットで調べたところ、日本でも割合が増えているそうです。海外では婚約指輪なしでその分結婚指輪に宝石をあしらっているそうな。
オスカーは婚約指輪がないので、その分いつも結婚指輪は宝石つきです。毎年なのは成長に合わせてだったのですが、今では習慣になっているんだろうなぁ。これからも毎年作っておりますとも、あの親子。
親子なのに orz
ブルガリとかのペアの宝石をあしらった結婚指輪はステキでしたw










倖せはこんなかたちでやってくる

探し物はなんですか?



「ゆ・・・・び・・・・」
 激痛の中、フレデリカ・グリーンヒル・ヤンは、変貌した自分の左手を見つめ、呟いた。
「・・・・ゆび・・ぁ・・・・」
 同行者であるイゼルローンの仲間たちが囲み、声をかけてくるが、そんなものは聞こえなかった。
 目が、背を向けた夫の消えた扉へ移る。
 ずっとずっと不安だった。
 行方不明の夫が戻ってきてくれたというのに、不安でたまらなかった。
 彼ヤン・ウェンリーが十歳以上年をとったからではなく、消えていた数日間の記憶がないことも、少なからずあったがそれでもなく、距離を置かれてしまったからだ。
 戻ってきたヤンは妻とも養子とも心の距離を開けてしまった。
 心の距離は、現実の距離となった。
 もう彼に近寄れない。彼が傍に寄せてくれない。
 彼がいとおしいと呼ぶ『オスカー』がいるから。
 今、その象徴となった物が、彼女の目に入る。
 つぶされた手。いや、つぶされた、結婚指輪。
 内側にはただ結婚した日付が刻まれるだけの、シンプルなプラチナの輪。
 だがそれは、長年の憧れが実った、倖せの象徴のはずだったのだ。
 憧れの人からプロポーズされ、指輪を贈られ、皆から祝福されて式を挙げた。
 そのはずだったのに・・・・
 さとい彼女は気づいてしまっていた。
 ヤン・ウェンリーがプロポーズしたのは先輩たるキャゼルヌに勧められたからであり、お互い天涯孤独の身であり、彼女が傍にいた。それだけだと。
 そこに愛はなく、もちろん恋もない。
 それでも暮らすうちに愛が育てばいい。プロポーズしてくれたのだから、彼を信じればいい。傍にいれば、いい。
 そう思っての新婚生活だったのに、戻ってきた夫は変わってしまった。
 もう彼には自分が望んだ想いを向ける相手ができたのだ。
 ただ救いは、寝ぼけた時に思い出すだけであり、普段は忘れてしまっていることで。
 忘れていて、と願っていた。
 その願いを、今、踏み潰された。
「・・・・わ、わたし、の・・ゆびぁあああ!」
 医者へと運ばれるフレデリカは泣き叫んだ。
 手をつぶされたからだ。
 ヤン・ウェンリーに背を向けられたからだ。
 誰もがそう思った。
 彼女の想いがつぶされたのだと、まだ誰も気づかない。
 ヤン・ウェンリーが結婚式にはめた指輪は、空白の日に失われていた。二人の結婚の証したる指輪は、もう彼女の物しかない。
 一つは消え、一つはつぶれ。
 なんて見事に象徴するのか。








 そして、彼女の夢も愛も人生も、つぶれたのである。
 偽者のヤン・ウェンリーを仕立ててまでして何をしようとしたのか。
 人々はそう口にし、イゼルローン共和政府は徐々に離散していった。
 フレデリカは最後まで彼は夫だと言い続けたが、それは日の当たる場所では誰も認めてはくれなかった。
 失った夫を思って作った政府に、いつまでも固執し続けたヤン夫人フレデリカは人々から白眼視されてしまう。彼女を大切に思う、そしてあの男がヤン・ウェンリーだと知っている者たちだけが守り、そして世間に出さなくなった。
 出せなくなった。
 彼は夫だと叫び、否定されるたびにわめき、悲嘆にくれ、恋しがって泣く。
 精神異常とまでは行かないが、とても社会生活を一人でできる状態ではなかった。
 保護者に見捨てられ腑抜けになったユリアン・ミンツに生涯面倒をみられたが、その末路はとても政府のトップに立ったとは思えないものだったという。

END



※チェシャ様よりのメッセージ
ディートおじさまが立ち去った後の、フレデリカ話、その後まで。
なんというか、結婚したのが悪かったんですよ。
あえて指輪、とは言わせませんでした。必ず「わ」がかすれているのがポイントw


てなわけで、チェシャ様のすんばらしぃ〜文章に感動した方は、チェシャ様の家「夜の迷いの森」に感動を伝えに行こう!                                     Byりほ

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