倖せはこんなかたちでやってくる
ヴァニシング・ポイント
彼は、グレていた。
彼はとにかくグレていた。長年グレているので、冷笑家で辛辣で、ひねくれている人当たり悪い性格が地だと思われているくらいである。本人すら、自分をそう思っているほどに。これほど長々続けて、根性があると昔からの関係者一同は口にしていた。関係者一同とは、私立学校時代の幼なじみ、唯一の家族である父方の祖母と、その祖母に仕える使用人ら、祖母の友人、そして父親の友人である。
関係者一同の総数は多い。皆、長年に渡る気にさわる対応をするグレぶりにもめげず、彼を静かに見守っていたりする。彼がどうしてグレたのか、よ〜く解るからこそだ。彼の陥っている心理状態から救ってやりたいと思っているが、関係者では不可能だと誰もが認識している。原因がどうにかしなければ、どうしようもないのだ。だが、その原因が原因なだけに、どうしようもない。
とにかくグレている彼の名はオスカー・フォン・ロイエンタール。ゴールデンバウム王朝からローエングラム王朝へと政変の起こった銀河帝国の、年若い元帥である。
グレている奴が元帥とは、とても怖いような気がするが、グレていると知っているのは昔からの関係者だけであるので、その恐ろしさは軍部で知る者はいない。軍人となる前に出会った者は除くが。
好きな人などいないと即答する(親友や祖母すら好きと言わないのである)ロイエンタールに現在、大っきらいな人物がいた。気にいらない奴は山といるロイエンタールだが、きらいと口にするのはそれまでただ一人だった。彼がグレた原因である父親だったが、ちょうど一年前にもう一人増えた。それも大がつくきらいぶりだ。
理由は単純。相手があまりに似ていたからだ。きらいな父親に、嫌になるくらいそっくりで、初対面の場で気を失いそうになったほどであった。思わず後で、きらいな顔を忘れないようにと立体映像を入れて肌身はなさずつけているペンダントで確認したほど、ヤン・ウェンリーは父親のディートリヒの若き日の姿と思えた。
大っきらいと隠しもしないロイエンタールは、敗北した相手だからと度量の狭い奴と見られた。誤解されても気にしない、完璧無視して耳に入ってないロイエンタールは、だんだんと悪い考えが入ってきて、どんよりと落ち込んでいく。もしかして父の隠し子だったら、と思い始めたら止まらない。ヤン・ウェンリーとは同い年であることも、誕生日が半年違いなのが想像の余地を与えてくれた。
「とうさまなんか、大っきらいだぁ!」
つい物を掴んで壁へと投げつける。ロイエンタールの悪癖のひとつである。すぐ物を投げつける上官に慣れきっている副官レッケンドルフは、突然扉一枚向こうの元帥のいる部屋から起こった物音にびっくりした従卒をなだめた。
叫ぶ言葉は聞こえなくとも、壁にぶち当たる音はよくもれる。何度もぶつければ聞きもらしもされない。
しばらくの間、ロイエンタールの執務室に部下は近寄らなかった。番犬レッケンドルフが近づけさせなかったのである。不機嫌な上官に寄っていく物好きは多いロイエンタール元帥府、もちろん筆頭はベルゲングリューン参謀長で、気がかりのかたまりとなってちらちらと現われていたりした。
『息子じゃなくても親戚かも知れないし・・・・ヤン・ウェンリーの傍にいるのだろうか』
ぐるぐると考えているロイエンタールは、ハイネセンから逃亡しイゼルローンを再度陥落したヤン・ウェンリーへ、戦う意欲がたっぷりとあった。証拠もないのに責めるような、八つ当たりじみた荒々しい戦闘意欲はだが解消しきれずに終わる。ラインハルト皇帝にブリュンヒルトに同乗するよう言われたからだ。
艦隊を率いてむかつくヤン・ウェンリーと戦うこともなく、イゼルローン回廊の戦いは勝敗も決まらないまま終結した。皇帝が停戦を言い出し、ヤン・ウェンリーに会見を求めたのだった。
1年の内、6月1日が一番きらいだ。6月1日がなくなればいいのにと何度も思ったことがある。
誰が捨てられた日をきらいにならずにいる? 平然としていられる?
ロイエンタールにとって6月1日は、独りで生きていくのを決められた日であった。包み込むように愛してくれた父親が忽然といなくなって、世界にぽ〜んと放り出された。
突然消えた父親に、仕方ないと諦めた祖母。使用人らも、父親の親友も同じように受け止めれたが、息子は駄目だった。
『記憶喪失は、記憶が戻ったら忘れていた日々の思い出を失うときもあるからと、どうして簡単に受け入れられるの? 忘れるなんて、捨てることじゃないか』
父親が行方不明となるまで、記憶喪失であるなど知らなかったロイエンタールは、ショックが二つも重なって、逃げることしかできなくなった。愛していた分だけきらい、父親にかかわるすべてに拒絶感を持ち、今までの生活を捨てて、性格すら変えた。
そうすることでしか耐えれなかった。違う所で、違う自分になるしか、心を守れなかった。気が狂いそうになる悲しみや寂しさに、自分が壊れる前に変える自衛手段に出たのだが、本人も周りもグレたとしか見えなかった。
6月1日だけは、妙にロイエンタールの心の防御に隙ができた。ふっと喪失感と孤独を感じ、だから防御を新たに張りめぐらせる。長い1年をそれで乗り越えていく。
6月1日に感じる気分を、無意識下の働きを気づかずにいらだたしいと思い、この日はきらいだと断じる。
『今年はヤン・ウェンリーの分もだな』
同盟では宇宙歴800年である今年のこの日、ロイエンタールは内心に呟いた。皇帝が望んだ会見にこちらへと向かっているヤン・ウェンリーを、気にしない帝国軍人はいないだろう。ロイエンタールは他と違った感情から彼を気にし、特に6月1日には腹立たしい気分を抱えた。
『なんてあいつは父に似ているのだ』
その気持ちはジェラシーだった。あまりに母親に似てしまった自分をうとみ、他人が似ているのが気にいらない。片目の色しか同じでないのを、どれほど悲しんだだろう。悔しかったろう。
周りの目など気にせずヤン・ウェンリーを堂々ときらいまくったロイエンタールの元に、6月9日、報告が入る。
−ヤン・ウェンリー死亡−
『えっ・・・・・・』
まるで父親がいなくなったときと同じショックを受けた。くしくも父親が消えた日と同じ6月1日だと知り、呆然とする。
そして、ふと思った。
ちょうど20年目なのだな、と。父親が消えたのは20年前だった。
この符合に気づいた彼は、ひざが崩れた。なぜだか報告をもってきたオーベルシュタインの部下フェルナーの目の前で、ロイエンタールは気を失う。ワイヤーロープ並の神経を持つと揶揄られるフェルナーだが、いきなり倒れた元帥にはっと表情を歪めて、抱きとめた体をぎゅっと抱き締めた。
『どこまで似たら、気がすむんだ・・・・』
ブラックアウトする意識のなか、ロイエンタールは苦った。泣きそうな色をひそませて。
目の前にヤン・ウェンリーが立っている。
死亡と報じられたくせにして、ぴんぴんして歩いてくる。むかむかとしながらその姿を凝視するロイエンタールは、細かな所を見れるほど近くなって、はっと驚いた。
去年会ったヤン・ウェンリーは、同い年とは思えぬくらい若く見えた。ロイエンタールも若く見えるがたぐいまれな美貌が衰えぬからであり、ヤンの理由は違う。年が解りずらい東洋系の外見に、ぼーっとしたところが片手の数ほど若く感じさせていた。だが眼前の彼は、一回りは確実に老けている。青年としか言えなかった男が、たった1年で壮年も半ばを過ぎた頃合いに変貌していた。
ぎくり、とした。
『どこまで似たら、気がすむんだ・・・・』
1か月ほど前、彼が死んだと報じられたさいに感じた言葉が、泣きそうな色を濃くして浮かび上がる。
無意識のうち、ロイエンタールの右手は胸元にいった。軍服の上からぎゅっと握る。素肌に触れている立体映像を入れたペンダントが、押しつけられて痛いほどだ。
ヤン・ウェンリーが気づいたかに、視線がぶつかる。ぴたりと向かい合った瞳に、ロイエンタールは震えが走った。
あれが本人なら、昔と変わらぬままに見つめていると言うのだが。自分を見やる瞳までが、同じように包み込むかのようだったのだ。
宇宙よりも広く愛してると言った父親の黒い瞳は、宇宙のようにどこまでも果てしがないくらい広くて、包み込んでくれた。
『どこまで似たら・・・・』
泣きたかった。大声を張り上げて泣き出したい。あの顔をめちゃくちゃになるまで殴りたかった。立体映像がそのまま出現したかの顔を、壊したい。どうして他人がその顔を持つのだ。
体がずたずたになるくらい打ちのめされたロイエンタールだが、父親と瓜二つの顔が苦痛に歪み、頭を抱え込んでふらつく姿に、駆け出していた。もう頭の中はぐちゃぐちゃで、ヤン・ウェンリーか父親か、判別はついていない。ただ愛しさあまって憎さ百倍の姿が苦しんでいるのが怖かった。つらかった。
ヤン・ウェンリーの随員が突然苦しみだした彼を取り囲むのを蹴散らし、軽々と抱き上げたロイエンタールは一直線に医務局へ急ぐ。叫び声を上げ、後を追ってくる随員など知ったことではない。随員が三人の男に阻まれたのも、だから知るわけがない。
まず先頭を切ったユリアン・ミンツが足を引っかけられた。ひょいと出したつま先で効果的に後続までも止めた将官は、人に好かれるだろう好感あるにこやかな顔をしていた。ユリアンを避けるまでもなく前へ進めた数人は、突進してきた提督にぶつかり、倒され、壁に押しつけられた。提督のダークブルーの瞳は激しく、食いつこうとする虎のように随員たちを威圧する。とっさ提督を避け唯一逃れたシェーンコップは、しかし真ん前に軍人というより有能な弁護士に見える憲兵総監に立ちふさがれた。
「なぜ邪魔をする」
元ローゼンリッター連隊長と知らないが、知っていても躊躇せず、知ったらなおのことはりきって行く手をふさいだだろうケスラーは、にやりと笑っただけだ。なぜなら、代わりのようにもう一人が先に口を開いたからである。
「集団で医務局に突進をかけられては、ね」
軽い調子で言われるのは、イゼルローン・イレギュラーズは慣れているはずだが、相手が帝国の少将であるのが彼らの神経にさわったようである。ケスラーは思わず溜め息を吐いた。どうしてこいつはこういう対応をするのだろうと呆れ返る。だが、こいつだからな、で思考は終わった。終わるしかない。フェルナーとは『そういう』青年であった。
喋る余裕がないほどたけり狂っているバイエルラインも、ケスラーの目からは黙っているだけマシとは言えない。壁にはさみつけて気絶させた相手を依然押えつけているのだ。殺しちまうぞ、とは口にしないが。壁に押えつけられる一人で気絶してしまったのがアッテンボローだったからこそ、即座の乱闘に発展しなかったのである。彼に意識があれば、とうにパンチが出てただろう。
ロイエンタールの行動だけでも驚いた帝国軍人らは、ケスラーはまだしも意外な二人が動いたことに、口だけしか動かせない様子だ。三人の意外なほどのコンビネーションに、立ち入れないものを感じた者もいたのだが。怖い、という感想も、あるだろう。
「医務局にて診察が終わり次第、ヤン元帥の元へと案内します。ですから、これより先に進むのはご遠慮を」
微笑んでいるよう見えるフェルナーだが、目が裏切っていた。後を追ったら殺す、と言っているような、刃物がきらりと光るのに似た底光りがあった。
自分もこの二人も、動揺のあまり我を忘れているな、と一部冷静な頭で考えたケスラー。いけないいけない、と深呼吸して冷静な部分を拡大させる。
フェルナーが喋っている間に、手を軽く振る感じの小さな合図で部下を動かしたケスラーによって、ヤン・ウェンリーの随員たちは完璧に動きを押さえられた。そこはフェルナーと部下に任せて、まだ壁に押え込むバイエルラインを引きはがすと、帝国側のざわめきを静めにケスラーは動く。
「仕方ない、か」
ぽつり、とケスラーは呟いた。呟きは、二つの意味が込められていた。ロイエンタールが動いたことと、自分たちが堂々と動いたこと。ロイエンタールと自分たちの動揺と、周りの困惑。どの行動も、誰の感情も、仕方がないのだ。
「バイエルライン、どうしてヤン・ウェンリーの随員に突進したんだ?」
確かにロイエンタールにくっついてヤン・ウェンリーの到着を見物していたと記憶するミッターマイヤーの声がし、ケスラーはそちらへ向く。事情にうといからと、自分たちと違ってまったく動かなかったロイエンタールの親友は、麾下の提督の中で一番頼りにしている部下に完璧なる無視を受けていた。ケスラーは、目を合わせれば殺気ばしったまなざしを、口を開けば罵倒を出しそうなのだろうと、手に取るようにバイエルラインの気持ちを悟った。
「なあケスラー、ロイエンタールはこの騒ぎを問われるかな」
ただ親友の行動に呆然とした驚きをみせていたミッターマイヤーの、部下に振られてこちらに向けてきた質問に、立ち入るな、ときつく吐き捨てそうになる。なぜこいつが親友なのだろう、と思う。
『嫉妬かも知れない。だが、気に食わない』
ロイエンタールを何一つ理解しないくせに、どうして親友と言うのだろう。だが、すべてを理解しないと親友と言えないわけでは、ないのだろう。どういう定義で親友となるのか、それはこうだと断言はできない。それを解っていても、ケスラーはこの小柄な男が認められないでいた。いや、昨年までは、こうも否定しなかったのだが。2月の行動は許し難いものがそれだけあった。
「倒れたヤン・ウェンリーを運んだだけで、がたがた言わなくても。それより卿も、このざわつきを落ち着かせてはくれないか」
「運んだだけか?」
ミッターマイヤーは眉を寄せる。随員から奪い、駆け去ったのをそう簡単に言ってもいいものか考えているらしい。なにより、ロイエンタールがヤン・ウェンリーをきらっていると知っているのだ。きらっているのに、どうしてああも血相変えて連れ去るのか、ミッターマイヤーには全然解らなかった。それは周りの帝国軍人も同じで、ロイエンタールのきらいぶりはそれだけ知られていた。
「そうだろうが? 他になんと言う?」
ケスラーの切り返しに、ミッターマイヤーは言葉が思い浮かばない。確かにロイエンタールが駆け去った方には医務局がある。簡潔すぎる言葉に、つけたす言葉は妙になかった。
「だが、どうして、あのように?」
再度のミッターマイヤーの問いかけは、別にケスラーに向けられたものではないようだった。自分か、駆け去った親友へ呟いたもののようだ。
だからケスラーは、無言に『仕方ないだろう』と心に落とす。
ケスラーだとて驚いたのだ。あれほどロイエンタールの父親にヤン・ウェンリーが似てしまったのは。何が原因か、死亡を判断された爆発現場付近で11日後発見されたヤン・ウェンリーは、あれほど老けていた。十日ほどで年を取るのもいいが、もう少し別の顔になってもいいと思う。
仕方ないのだ。ロイエンタールが血相変えて連れ去るのも。
仕方ないのだ。自分たちが動いてしまうのは。
この状況のすべてが、仕方ないとしか言いようがない。悪いのは、ヤン・ウェンリーの顔にある。ロイエンタールの父親と同じ姿が。
彼が悪い。ディートリヒ・フォン・ロイエンタールが。溺愛するだけ甘やかして、重度のファザコンに育てながら、突然消えてしまうのがいけない。
「だから、見ろよ。かわいいオスカーがいなくなっちまったじゃないか」
表情が豊かで、女の子のように綺麗で、どこの女の子よりかわいかったオスカーはいなくなってしまった。父親が消えた日を境に。
ケスラーの呟きは、誰の耳にも届かなかった。よかったことである。
たった数日で年を取ってしまったヤンの身体の変調は、周りの心配を解消できる原因を発見できなかった。偏頭痛であろうとしか軍医は診断できない。ヤンの随員、つまり彼の部下や妻、養子はその診断に不満を出した。なによりの不満は、ロイエンタールの存在だろう。ロイエンタールの行動は、帝国側にも困惑させた。
気を失ったままのヤンに、びたっとくっついて離れないロイエンタールは、誰の言葉にも耳を貸さない状態にあった。引き離そうとすると知られた強さで抵抗の限りを尽くす。
妙なくらいケスラーとフェルナーが動き、ロイエンタールをそのままにおかそうとする。帝国の者たちは、突然二人がロイエンタールに親身になって味方になってるとびっくりした。コンビネーションを見せたもう一人であるバイエルラインはどうしているかというと、以前のままで、二人のように何かはしなかった。出番がないから引っ込んでいるのだと、何人が想像できただろう。
一夜過ぎても目覚めないヤンに随員たちの不安は高まった。ケスラーの部下の憲兵が厳重に警備するドアを頻繁に覗き込みにくる。できればずっとついていたいのだが、ぎゅっと手をつないで傍につくロイエンタールが落ち着かないからとケスラーに言われて、決して許してはもらえないでいる。どうして彼はよくて、自分たちは駄目なのか、理不尽すぎて憤慨の極み。
「ロイエンタール元帥は、一番のヤン提督嫌いだ」
帝都フェザーンの大本営の中なのに、どうやって情報を拾ってきたのかポプランがそんな話を拾ってきたのは夜のうち。帝国側もどうしてロイエンタールがくっついているのか解らず、困惑しているのも聞きつけていた。
「オスカー・フォン・ロイエンタール・・・・オスカー・フォン・ロイエンター ル・・・・」
不安のあまりなのか、ヤン夫人フレデリカはぶつぶつと繰り返している。ヤンが見つかってからこの1か月、彼女の心労を傍にいる彼らは気づいており、その姿は心配と不安を持たせた。
呟くのをやめたフレデリカがまた病室伺いに行くのを、皆はついていく。
ドアを開けた彼らは、すこぶる驚くことになる。
「あなた、どこに寝ているのっ!」
憤慨の極みとわめきたてたフレデリカは、病人の寝ているベッドに潜り込んでいる元帥の向こう側に横たわっているヤンの声に、だが喜べなかった。
「静かにしてくれないか、この子が起きてしまう」
鋭く、冷ややかで、威圧のある不機嫌な声。
やっと目覚めてくれたヤンだが、部下たちはもろ手をあげて喜べない。
「扉を閉めてくれないか」
入ってこい、との言葉ではなかった。その怒っている声は入室を拒む。なによりも、向けられる黒い瞳が、彼らを追いやろうとしていた。
「ウェンリー・・・・わたしよ、フレデリカよ。あなたの妻の」
不安にあふれた彼女の言葉に、だがヤンの瞳は揺らがない。ふと考えるような、思い出すかの間を置いて、解っているよと彼は答える。だが、瞳は『だからなんだい?』とけんもほろろの冷たさ。
ドアの所で詰まっているように中に入れず固まっている随員たちの様子に、憲兵たちは上官へ知らせるよう動こうとした。が、フレデリカたちほどではないがちょくちょく様子を見に足を運ぶケスラーが、そこにやってきた。素早く駆け寄り、ケスラーに異変を知らせる部下。ケスラーは思わず眉を寄せた。
中を伺おうと、ヤンの随員に割り込む。ぎくり、とケスラーの身体がこわばった。別にロイエンタールが男のベッドに潜り込んでいるからではない。ヤン・ウェンリーの冷たい瞳に、覚えがありすぎたのだ。
「ディート、おじさん・・・・」
ケスラーの囁きを、割り込まれている随員たちのほとんどが拾った。
「・・ん〜っ・・・・」
うるささにロイエンタールが身じろいだ。会話を交わしていても目覚めないとは、よほど熟睡している。安堵しきって、信頼して、警戒することなく深く眠っている。きっと20年ぶりの安らぎだろうと、ケスラーは感じた。
もぞもぞと動くロイエンタールに、ヤンは顎の下にある頭に視線をやった。自然な動きでダークブラウンの頭を撫で、背中をなだめる。ぎゅっとロイエンタールはあたたかいヤンを抱き締め、胸に顔を押しつけた。
「・・とう、さまぁ・・・・」
甘えきった寝言。
ふわりと笑んだヤンだったが、再度ドアへとやった顔は柔らかさのかけらもなかった。
「出ていってはくれないか。オスカーが起きてしまうだろう」
「・・あ、あなた・・・・」
フレデリカは声だけでなく全身が震えていた。奇跡のように戻ってきた夫はしかし、外見の変わりようが内面にもあるのを、妻は知っていた。何度寝ぼけてその名を口にしただろう。オスカー、と慈愛にあふれる声を聞いたか。こんな声を彼女は聞いたことがなかった。自分より愛されている存在がいると、確信していたのだ。
不安を呼ぶほど引っかかりのあったロイエンタール元帥の名前は、思った通りに本人であったのだ。
「ディート、おじさん、ですか?」
ケスラーは信じられなかったが、尋ねていた。答はなぜか、解っていた。
あまりにも似ていたのだから。
「君は誰だい? そう呼ぶ子はいるが」
「そうなら、それでいいんです。失礼しました。彼らを追い出します」
「そうしてくれればありがたい」
ヤンの冷たい返事に、ユリアンは大地が崩壊したようなショックだった。どうしてヤンが、優しい保護者が、自分をこれほどに追い出そうとするのか、解らない。
ケスラーの行動よりも、ヤンのその冷たさが随員たちを病室から追い払った。後にきっと後悔し、しばし思い悩むのであるが、このときはただ一人の存在にヤンの思いは集中していた。
天使が生まれてきたのだと思ったかわいい息子が、12才の子供でなく立派な青年であるのもいぶかしまず、ヤン・ウェンリー、いやディートリヒ・フォン・ロイエンタールは安らかに眠る姿をいとおしむ。
一晩中意識の戻らなかったヤンに、ずっと手を握っているロイエンタールの心労は目に見えてつのっていた。誰の声も耳には入らず、二度と離れないとばかりに懸命になってくっつく彼の、認識は心労と心配に狂いまくって父親としか見ていなかった。
目を開けたヤンに父親そのもののまなざしを向けられ、思考がまともでなかったロイエンタールはすんなりと父親のものだと受け止め、20年間も封じてきた真実の自分がするりと出てくる。
「とうさまぁ」
今にも泣き出しそうな声を出し、彼を心配させる。今にもぽろりと涙をこぼしかねないくらいうるませた瞳がおもむろにトロンとなり、眠気に襲われているのだと彼に気づかせた。
「オスカー、入っておいで」
優しい優しい声が耳に入り、父親がいつも通りに布団を上げて中へと促すのをぼやける視界で見てとって、ロイエンタールはマントのついている上着と靴を同時に脱いだ。安堵の波に訪れた眠気に勝てず、勧められたベッドへとおとなしく潜り込んだ。つけている香りは違うものの、確かにかぎ取った父親の匂いに身をすり寄せて眠りに入る。
果てがないような安らぎに包まれて、ロイエンタールはしばし倖せにひたった。
目覚めたときの騒ぎを知らず、ロイエンタールはただ眠った。
※ ※ ※
トリックに引っかかってピンチにヤンは陥っていた。魔術師と言われるわりに罠に落ちるとは名折れだが、ヤンが引っかかったわけではない。それに、だまされても仕方がないと思えるヤンだ。
皇帝の会見に向かったレダUに、アンドリュー・フォークという暗殺者が商船を使って現われ、それを帝国軍が助けてくれたのだ。命の恩人の来訪を断れるはすがない。まさかその命の恩人の方も暗殺者だとは、ヤンはちらりとも疑わなかった。招き入れてしまったテロリストにレダU側は抵抗しきれず、逃げろと言われたヤンはどこへ逃げればいいか解らずうろつく。
このところ眠れないからと、睡眠誘導剤を服用したのが更に状況を悪くし、頭に広がる眠気に考えることもろくにできず、ヤンは通路をゆく。途中暗殺者に出くわしたが、相手が薬物中毒者のお陰で足を撃ち抜いただけで、血の色に殺したとはしゃいで去った。だが、命は助かったものの確実に死の国への扉が開いていく。止血はしたものの、撃たれどころが悪く出血が多かった。
眠すぎてか痛みも感じず、頭のぼんやりさは晴れない。ここで死ぬのかな、と恐怖もなく感じた。あまり死にたくないな、と思ったヤンの脳裏に、なぜか妻や養子でなく、敵将が現われる。
「確か・・オスカー・フォン・・ロイエンタール」
ハイネセンを落とした双璧の片割れ。ハイネセンにて対面したとき、自分を見てショックを受けたらしい上級大将。自分が世に知られた『ミラクル・ヤン』とは掛け離れた外見をすると認識しており、敵だった帝国軍人たちが「これがヤン・ウェンリーか」と驚いたのも気づいていた。が、だが、彼のショックはそんな驚きとは違っているよう感じたのだ。
まるで、深く愛し、ゆえに激しく憎んでいるような目をしていた。自分に向けられているが、自分の後ろへと注がれているような想い。
どうしてそう見るのか、知りたくなった。だがそんなチャンスなどなく、未だ謎のままにヤンの心に引っかかっている。
どうして気になるのか、ヤンは解らなかった。解っていたら、きっとフレデリカ・グリーンヒルと結婚しなかっただろう。ヘテロクロミアの元帥に一目ぼれという恋をしたのではない。でも、あれほど深く激しく愛してほしいと、彼の心の深い所は感じたのだ。フレデリカが自分を愛していると知っている。だがその想いは、エル・ファシルの脱出行で命が助かったのが発端だと理解していた。少女の憧れがふくらんで愛情に至ったのを、違うとは言わない。だがヤンが欲しいと感じた愛とは違うのだ。
きっと今の彼は、向けられる恋愛感情に満足できなかろう。なぜなら今の彼には『英雄』の看板がついてくるからだ。英雄だから恋したのではないと言われても、はいそうですか、と信じられない。フレデリカが恋心を向けていると気づいたおりも自分自身を愛してくれているとは信じておらず、心底では今でも信じられないでいる。
ヤンは元から人から感情を向けられるのに慣れてない、受け入れずらいとするところがあり、鈍感な部分はそれからきていた。本人も感情の起伏が緩やかで、激しい感情を覚えたことは少ない。過去愛したジェシカ・エドワーズにすら、穏やかな想いの恋心であった。
ある一線から決して立ち入らそうとしないヤンに受け入れられたのは、生活に入り込んできた養子だけだった。初めからすんなりと入れたのではなく、表面上はうまく暮らしていたが、ユリアンが心に入ってきたのは徐々に、一滴一滴したたらせて伸びる鍾乳石のようにゆっくりと時間をかけた結果である。
それでなぜ自分からプロポーズしたのかは、ユリアンが赴任したフェザーンの戦乱から自力で手元に戻ってこれたのがきっかけであった。非保護者が一人前になった感慨が、また自分が一人になった気分とさせてしまい、ならばと家族のないフレデリカと寄り添うことを考えさせた。先輩と尊敬するキャゼルヌが彼女を勧める言葉を出していたのが、そんな考えを実行させたのだろう。ヤンの行動は中身が伴わないだけにひどいものだったが、フレデリカの喜びように悪くはないものだと思ってしまったのである。
フレデリカも同じように、時間をかければ心に入れてもらえたのだろうが、思いもよらぬ所で障害が生じた。ヤンはそれを知ってから解ったのだ。ヤンの心の奥底は。フレデリカは恋愛としてだけでなくヤンから愛されることは、決してありえなくなった。無意識でだが、ヤンはすべてを覆すほどの激しい愛情を求めたのだから。
深く激しく、そしてその存在しか気にしていられなくなるくらいの横暴さでもって、愛してほしかった。信じられない、受け入れずらいとする心を、くつがえし、押しのけ、引きずり寄せるように愛と面と向かせる強引さを我が身に受けたかった。たとえ、恋愛でなくとも。自分がいなくなればおかしくなるくらい、きっと愛してくれるだろう、そんな深く激しい愛が、彼は欲しかった。
ヘテロクロミアがそれを実現してみせたのだ。存在すると知れば、それが欲しくなる。それしか欲しくなくなる。
互いが狂ってしまうくらい、愛してほしい。
それが自分に向けられたものではないから、自衛手段にかヤンは、ロイエンタールが気になる自分を理解しなかった。
が、理解しなくとも、死を前にして思うはヘテロクロミアばかり。
「どうして、私をあんな目で見たのだろう」
知りたい、と心から思った。またあの瞳に会えるのだと、ラインハルトに会うよりも楽しみにしていたのに。
『お願い、私を見ておくれ』
私の後ろを見る のでなく、この私を見つめておくれ。
死を前にして、正直になったヤンの心は、だが突然の衝撃にかき消えたのである。
ボリス・コーネフからの情報でヤンを追ってきたユリアンは、テロリストに襲われているレダUに突入できたものの、見つからぬ人を捜して焦っていた。間にあってくれと、何度も祈る。
まるで、祈りをあざ笑うように艦が揺れた。
「何事っ」
ユリアンだけでなく、同行する者らも叫ぶ。
その突然の揺れは、機関部付近の爆発が原因であった。いざというとき、確実にヤン・ウェンリーを殺す為にと持ち込まれた爆弾のひとつが使われ、機関部の一部を損傷させ、レダUは航行不能に陥った。
二日をかけて捜索した結果、ヤン・ウェンリーの死亡は断定された。死因は機関部付近の爆発に巻き込まれたとされたが、裏付けは彼がいない点だけにある。ヤン・ウェンリーを殺したとのテロリストの証言もあったが、薬物中毒症があまりにもひどい為に信憑性なしと判断をくだされていた。
航行できないレダUは、修理がきくということでその場で引き続き現場検証をしながら作業させ、自力で戻らせることが決まり、ユリアンらはやりきれない思いを抱えてイゼルローンへと帰宅する。
ようやく6日に戻ってきたユリアンたちは、夫の死を信じられないフレデリカに重荷を背負わせる。すぐさま開かれた会議に、確証なき死に断定するのは早急なのではとの声もあったが、ヤンの幕僚たちは『ヤンなきこれから』を一日でも早く始めなければならないと悟っていた。
魔術師と呼ばれたヤン・ウェンリーの死は、亡き骸がなかっただけに信憑性が薄いとイゼルローンにつどった者たちに思われていた。それだけヤンの存在は絶対だと盲信されていたのである。人々が言うようにヤンのトリックであるのなら、ユリアンたちに苦労はない。だが彼らは絶対な存在を失い、それからを自分たちで進まなければならないのだ。
突然に、道標を失い、宇宙にぽ〜んと放り出されたのだ。
問題は山とある。ブリュンヒルトで待ち構えているラインハルト皇帝は、ヤンでなければ決して手を握らないだろう。代表を失ったエル・ファシル独立政府も手を引く。イゼルローン要塞だけを地場にする彼らは、孤立していた。
どうしたらいいのだ、とわめく前に、どうするかと模索できる土台を作る為に、ユリアンたちは早急に立ち回るしかない。
して6月10日、後世『急いては事を仕損じる』とのことわざを具現したと言われる『イゼルローン共和政府』が樹立する。政治的指導者にヤン夫人フレデリカ、軍事的指導者にユリアン・ミンツが押し上げられ、ヤン・ウェンリーをしのぶ意味しかない残された家族に民主主義の最後のともしびが任された。 遺体なきヤン・ウェンリーの葬儀のハイライトとして堂々未亡人から宣言された政府樹立は、魔術師のカリスマゆえに盛り上がりを見せた。が、それは、ハイネセンが帝国から脱出することで生み出した民主主義精神の、最後の輝きでしかない。
夫を失った悲しみのなか、民主主義の継続を主張したフレデリカの姿は美しかった。悲しいほどに美しかった。
たとえそれが、のちに『我が手で首を絞める』とのことわざ通りの末路を迎えた、と人々に言われる行動であっても。
見切り発車に出た途端、イゼルローン共和政府は脱線を余儀なくされた。
たった二日たっただけのことである。が、その二日が待てなかったのか、と人々の口に上ぼるはめとなる、脱線理由があったのだ。
彼を発見したのは、機関部の修理を待ちながら行なわれていた現場検証を受け持っていた下士官だった。下士官は宇宙へと突き抜けて穴の空いた区域の応急処置を点検しながら、おざなりに何かの痕跡を捜して歩いていた。地球教徒の襲撃から11日が過ぎ、もう何も見つけられまいと惰性に行動していたのだが、予想は裏切られ、あおむけに転がっている男を発見する。
「誰だぁ」
兵士の誰かがさぼっていると思ったが、すぐに違うと気づく。はっとして、がらりと変わった顔つきで近寄った下士官は、気を失っているらしい男の顔を覗き込んで、一層はっとする。
「ヤン・ウェンリー?」
思わず敬称を忘れてしまうくらい、男はヤン・ウェンリー元帥に似ていながら他人だった。下士官だとて有名どころのヤンの顔を知っていた。だから男が、似ているが年を食いすぎていると思えたのである。
ヤンに似た少壮の男は、高そうな服で土の上を転がったとしか思えない汚れた様子で、廊下の上にのびていた。上品にまとめられた装いは、しかし軍艦の中にいる格好ではなく、それだけでも十分に違和感があるが、汚れた様子が更に不可思議である。レダU内に土などはないのである。
呼び集められた人々に囲まれても、男は目覚めなかった。医務局に運ばれ、診断されるさなかにやっと目覚めた男は、異常なしと軍医から言われるが、本人ひどく首をひねることになる。彼は、鏡を見て驚いたのだ。
「どうして私はこれほど老けこんだのだろう?」
彼一人でなく、みなに首をひねさせた問いかけとなる。
彼は、ヤン・ウェンリーだと名のったのである。
政府を脱線させた障害物は、だが皆に喜びを与えた。たとえどれだけ疑惑があろうと、15才は確実に老けていようとも、ヤン・ウェンリーが戻ってきたのは喜びでしかない。本人であるのなら。
本人であるか調べる為に、レダUにつけていた戦艦を使ってすぐに身柄をイゼルローンへ送った。軍艦の設備でできるかぎりの肉体的特徴を調べ、最後の確証にとイゼルローンにてDNA鑑定を行なう。血液型も指紋も声紋も、網膜ももちろんDNAまでが、ヤン・ウェンリーのものと一致したと医務局が診断結果を出したのは19日のこと。
確定されるまでに、2週間もなく急激に老け込んだ理由を知る為に徹底して精密検査をも受けたヤンは、詰問とも言えぬ穏やかな質問にきた部下やカウンセリングにきた医者に、ろくな答を返さなかった。返せなかった、が正しい。ヤンにとっては薬でぼんやりした頭で襲撃を受けた記憶を最後に、医務局で目覚めただけである。
あやふやな感覚はあるのだが・・・・
あやふやすぎて、ヤンはカウンセリングに口に出せなかった。だがその感覚は、日に日に強まってくる。
ヤン・ウェンリーだと認められる前なのに、イゼルローンにつくなり涙の再会をしてくれた妻と養子に、だが彼はかすかな違和感を覚えたのだ。なぜだか他人事を見ているような、感覚の薄い、まるで懐かしい、感慨の薄い懐かしさだった。
ぬぐえぬ違和感にわずかだが確かに彼らと距離を置いてしまうヤンに、共に生活するフレデリカは敏感に察した。いや、痛感せざるを得なかった。
元から、優しいが明らかな愛情を示してくれなかった夫だったが、感情の起伏が激しくなくいつも穏やかな人だと理解していたので、フレデリカに不満はなかった。自分よりユリアンを大事に思っている点も受け入れていた。いつかユリアンと同じくらいの存在になれたらと、望んでいた彼女は、だからその声にショックが強かった。
やっと家に帰ってこれた夫の、寝ぼけた声。夜、先に休んだヤンの寝顔を眺めていた彼女へ、ふと目を開けた彼はあまりに優しい言葉をかけた。
「オスカー、入っておいで」
ふわりと淡い笑顔を寝ぼけ顔に浮かべて、初めて見たとても優しいまなざしを送る。いつくしみのあふれたそんなしぐさに、フレデリカは凍りついた。
布団を上げて入ってくるのを待っていたヤンだが、待ちくたびれたのか、違うと気づいたのか、眠ってしまったのか、その手を下ろし目を閉ざした。
いつか、誰よりも大切にされたいと願っていた、自分でも気づいていなかった欲望(ゆめ)を、誰かに向けられてからフレデリカは知った。
オスカーとは誰なのか、彼女は聞けなかった。答が怖かったのではなく、自分を捨ててその相手へと行かれるのを恐れて、その名を埋めてしまったかに知らないフリをする。触れなければ痛くはないとの態度だった。
自分で触れなくてもヤンは寝ぼけてその誰かを呼び、その度フレデリカは痛みを受けた。昼間、起きているときにまったく名前を出さない態度に、ヤンが消えていた2週間ほどの謎の空白にかかわるのだと直感し、忘れている時間のなかにいるのだと思い至る。忘れているなら、そのままでいてと、強く願った。
オスカーと彼が口にするたび、遠のいていく気がした。ヤンの戸惑いが深まっていくのを感じる。戸惑いが、違和感から生じるのだとは、打ち明けられていないフレデリカは解らなかった。
ヤン・ウェンリー発見の報は、イゼルローンから外へ出されはしなかった。初めはヤンの老けた外見に、彼と認めるまではと控えられたのだが、本人と認められてからは政治的問題の為に発表されなかったのである。
「私は遠慮するよ」
妻と養子から席を譲り渡すと言われたヤンは跳ね返すように、だが穏やかに断りを入れた。
「この状況で、そう言われるのですか」
「言わせてもらうよ、シェーンコップ。君は以前に言ったよう、この私をトップに就けたいらしいが、今の状況を利用してほしくはないね」
「ヤン先輩が引き継ぐのが、一番妥当じゃないですか」
シェーンコップのみならず、後輩のアッテンボローが共和政府のトップに就けとせっつく。それは現在イゼルローンにいる、共和政府に参加する者らの思いだろう。
アッテンボローの言う通り、自分の家族であることが政治と軍部のトップに二人を就けたのなら、威光の元に権力が移るのが、この国をスムーズに動かす一番である。ヤン・ウェンリーを象徴として成り立った国に、そのヤン・ウェンリーが引っ込んでいては、いろいろと問題が生じる。
だが、本人のヤンは、心底嫌がった。
ひそかに息づくだけでもいいと、民主主義を消さぬ為『シャーウッドの森』を作ったりもした彼は、だが自分が政治を握るのを恐れ、嫌い、どんなに権力を掴めるチャンスがあってもそれを捨ててきた。
しかし今、ユリアンとフレデリカが差し出した権力を拒否した理由は違っていた。ヤンははっきりと自覚した。あれほど固執した民主主義への思いが、自分の心から綺麗に消えているのだ。
『そんなことはどうでもいい』
差し出された権力へ、そんな思いが浮かんだときに、彼は気づいたのだ。
周りが押しつけようとするなか、ヤンは懸命に感じたものを追った。だがするする逃げ、思考を邪魔する周りへ怒鳴りつけそうになる。
民主主義より、イゼルローンに残る者たちへの責任より、大切なものがあったのだ。そんなことより大切なものがある、と感じた瞬間を、懸命に追いつめる。
ふっと糸口らしきものを掴んだ。愛しさが胸に広がり、息が止まる。どうしてこんなに愛しく思うのか考えようとして、フレデリカに邪魔された。
「あなた、私たちを捨てないで」
胸を突くすがりつく声に、ヤンははっとした。
「フレデリカ・・・・」
戸惑い、妻を見る。どうしたらいいかと、目を辺りにうろつかせる。だがどこを見ても、自分にすがりついている目があった。あなたしかいないと彼らは訴える。だがヤンは解っている。魔術師と呼ばれた男の存在感があれば、それだけでいいのだ、と。だから彼らは遺族に象徴として立つのを求めたのだ。
自分でなくても、彼らはやっていけるのだ。
「私は政治家になるつもりはまったくない」
ヤンはきっぱりと断言した。
長々と続いた話し合いに、ヤンはついにひとつだけ譲歩した。イゼルローンでできた国をラインハルトに認めてもらう為、そして本来あったはずの会談を行う為、皇帝に談判すると。
ラインハルトとの面談を求めるさい、ヤン・ウェンリーの生存は発表された。
「この話し合いで、できる限りのことはするが、決して政府のトップに、いや政治にかかわる席にも就くつもりはないからね」
部下たちへ、しっかりとヤンは釘を刺した。
6月29日の会議にて、ユリアンとフレデリカが譲ると言う役職の問題を棚上げしたまま、ヤンは「時期は今しかないから」とラインハルト皇帝との会見を決め、翌日帝国へヤン生存の知らせと共に申し込みを入れた。ヤン生存と立ち消えた会見の申し込みに帝国は揺れたが、専制君主主義らしく、ラインハルトの独断で承諾。
地球教という邪魔をする第三者の存在に、今度は帝国からヤンの護衛艦隊が出され、なんの符丁か七夕の日にミュラー艦隊はイゼルローンに到着した。ヤン一行を旗艦パーツィバルに迎えたミュラーは、帝国軍人で最初にすこぶる驚いた人物となった。
「そんなに驚かれるほど変わりましたか?」
穏やかなヤンに、戸惑いを隠せずにミュラーは口ごもる。自分と同い年ほどしか見えなかった相手に一気に老け込まれてはそうなろう。ミュラーはついまじまじと見ながら、彼がただ老け込んだだけではないと気づいた。人間的な厚みができたというか、頼りなさげだった若さが経験から出る貫禄に変わった、どっしりとした落ち着きは、一人で帝国を相手にした魔術師の風格に十分であった。
そしてミュラーは、一週間の船旅の間に、ヤンとその一行の間のおかしな空気にも気づく。はれ物を触るような部下や妻の様子は、一気に老けたせいなのだろうと彼は思った。
今度は邪魔も騒動もなくフェザーンに到着し、ミュラーは重荷を肩から降ろしてヤンたちをケスラーに引き渡した。ケスラーは厳重な警戒を敷いて、大本営代わりのホテルへと案内する。
ホテルへと入った途端、物見高い視線を浴びたヤンは、去年の自分を知る者たちが驚いているだろうと思った。
一際強い視線を受け、ヤンは目を向けた。
『オスカー・フォン・ロイエンタール!』
若かった自分が最後に心に浮かべた相手を視線が捕らえた。捕らえた瞬間、どっと押し寄せた感情に圧倒されそうになる。駆け寄って抱き締めたい衝動を、どんな感情だと言えばいいのか。
ヘテロクロミアの向ける激しい視線に、全身が歓喜する。憎まずにはいられないその想いの深さは嬉しいばかり。
ロイエンタールの驚きは、自分の後ろを見ている視線ではなくした。ヤン自身をあの狂おしいまなざしで捕らえる。泣きわめきたいと訴え、殺しかねない暗い激しさをほとばしらせ、ヤンを凝視する。
『オスカー!』
叫びたくなった。あふれんばかりの愛情で、彼の名を。
叫べなかった。がつん、と殴られたようなショックを受け、突然激しく頭が痛み、ヤンは倒れ込む。
『駄目だ。今倒れては。あの子が心配する。オスカーが、オスカーが泣く』
だがヤンは、意識をとぎれさせた。
ヤンは少しもおかしいと感じなかった。かわいい息子が成人した姿でいることを。
彼は、自分が誰であるか、やっと思い出した。一気に思い出し、滑らかにすべての記憶を掌握する。自分が40年昔のオーディンに行き、そこで20年間別人として暮らしていた日々を、33年間ヤン・ウェンリーと生きていた時間ときしみなくつなげた。
ユリアンやフレデリカが懐かしかったわけも、民主主義より大切なものも、すべての理由を見つける。自分の現金さを痛感する。
幸せな生活は、主義主張などどうでもよくする。
ヤンは、自分の倖せそれだけを選ぶ自分であると、これから知るのだ。
END
※チェシャ様よりのメッセージ
タイムスリップで親子物、のヤンロイです。
脳内銀英エリアで最強のお方ディートおじ様登場です。最強に残酷で無情でピンポイントで愛情深いお人、それがディートおじ様。
最高の息子至上主義なのですが、別れた時点ではまだ手を出しておりません、お父様。
・・・・手を出す予定あるのですか?
てなわけで、チェシャ様のすんばらしぃ〜文章に感動した方は、チェシャ様の家「夜の迷いの森」に感動を伝えに行こう! Byりほ