ガイエスブルク城物語 T

 


朝の光が差し込むより先に、私は小鳥のさえずりで眠りの世界から引きずり出される。

(ああ、世界は今日も・・・)

寝台に転がったまま暗い天井に手を伸ばす。

(私の願いを聞いてはくれなかったか)

深い眠りが私を招かなくなって久しい。

(世界は今日も、私を生かし続けるのか)

我ながら白く細い手だ。呆れ気味に私は考える。

今日もこの爪を紅く染め、紅を差し、絹を纏い、あの黄金の有翼獅子の傍らに立つのか。

そのとき不意に意識の琴線を何かが揺らした。

私は無視をすることに決めていたが、その何かは不思議にしぶとく、私は刹那想いに囚われた。

(そうか・・・、今日はあの男が城に帰ってくる日か)

思い出すのは夜と昼の狭間の瞳。

そこまで考えて私は想いを振り切るように、首をふった。

あれは「私の思い出じゃない」

あの美しい瞳を愛して止まなかったのは「私じゃない」

そう、私はこの泣いている子供を胸に抱きしめて慰めてやっているだけだ。

あの黎明の瞳の持ち主をいまだ愛しくて堪らないと泣く子供を。

そう、私はこの可哀想な子供ではなく、この緑の国の国王ラインハルトの愛妾・蒼月だ。

私は、それでもあの男を残して死ねないと云うこの子供のために希う。

世界が、甘い音を立てて優しく崩れ落ちることを。

この子供を哀れむが故に希う。それだけだ。

 

何度となく繰り返された封印で、理性は感情を殺す。

しかし、その殺されたはずの感情は、本人の気付かぬうちにその白い指の腹で愛しげに唇をなぞっていた。

本人ですら知ることの無い、国王の愛妾ただ一つの癖だった。

 

北軍大将オスカー・フォン・ロイエンタールが遠征から帰ってきて初めに気づいたことは城内に低く垂れ込めるささやき声だった。

ロイエンタールが事情を知ることが出来たのはその日の晩。無事帰ってきた祝いだと西軍大将ウォルフガンク・ミッターマイヤーに誘われた酒の席でだった。

「陛下が愛妾を迎えられたのだ」

が、ロイエンタールは首を傾げる。

「それがどうかしたのか?」

国王が愛妾を迎えることは別に不思議でもなんでもない。国王は今年18歳、在位10年を迎える。今まで結婚しなかった事の方が不思議なくらいだ。

苦い顔で横を向いた友人に軽く水を向けてみる。

「何か問題でもあるのか?」

国王が愛妾にかまけて国政を顧みなくなったとか、愛妾の為に国政を歪める様になった。などというのなら確かに問題だが、帰還の報告のために謁見した国王にはそういった感じは見受けられなかった、むしろ鋭気に満ちて以前にもまして国政に励んでいるような感触だった。

手を組んで机に載せて下を向いて暫く押し黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「陛下の愛妾殿は、名を蒼月殿とおっしゃって異国風のお美しい方だ。黒髪で、線の細い儚げで控えめな方なんだが・・・・」

一瞬、ロイエンタールの背筋に悪寒が走る。

(黒髪で異国風の線の細い・・・)

一瞬浮かび上がりかけた面影を首を振ってかき消す。思い出すことすら己に禁じた相手だった。

「お前・・・仙花楼を知っているな?」

「名前だけは。あの、花街の高級娼館の事だろう?」

無言で肯定するミッターマイヤーの顔にその続きを見出して、片眉を上げて驚きを表す。

「まさか・・・あの陛下がか?」

ロイエンタールの上に一人しかいない上司である9つ年下の国王は文武に渡って非常に英邁な国王であるが、性格に少年らしさを残す潔癖な所があり花街などは存在すら否定したくなるタイプである。

「で、何が問題なんだ? 確かに、陛下らしからぬことだが・・・」

それだけではこのミッターマイヤーの、いや、城内の雰囲気の「低さ」が説明しきれない気がロイエンタールにはした。

別に娼婦あがりの愛妾などコレまでにいくらでも例がある。

人妻じゃないだけマシだとすらいえるだろう。

「お前は笑うかも知れんが・・・」

ミッターマイヤーの顔に影が落ちる。

が、不意に顔を上げ、必死という風に説いた。

「誤解しないでくれロイエンタール! 蒼月様が悪いわけではないのだ。あの方は良い方だ! すばらしい、聡明なお方だ。お優しくて、・・・・しかし、しかしな。あの方は・・・城においてはおけない方だ。城に居てはいけないお方だ。俺は、そう思う」

再び、組んだ手をテーブルの上におき、うつむく友人にロイエンタールは静かに口を開いた。

「笑うつもりは無い。誤解は・・・どうだろう。俺はその蒼月殿にお目にかかったことがないからな。後で判断するが・・・」

ロイエンタールは平然と続ける。ある確信を胸に秘め。

「その存在が大きければ、重ければ、城は傾く。それが傾城だ。ミッターマイヤー」

聞きたくない。とでも言う風にミッターマイヤーが頭を抱える。

「本当に・・・いい方なんだ。ロイエンタール・・・」

 

北軍大将を見送った西軍大将は先ほど友人に云えなかった言葉を夜空に投げた。

「ロイエンタール、俺は陛下が恐ろしい。このごろひどく追い詰められたような鋭い瞳をなさる時があるのだ・・・まるでわが身を苛んでいるような」

声が星空に溶けて行く。

「それでも、蒼月殿がかけらもそれを望んでいないことが・・・辛いな」

星々はミッターマイヤーの胸にわだかまった不安までは引き受けてくれそうになかった。

 

家に帰ったロイエンタールは迎えに出た執事に外套を預けながら、随分と白くなった彼の髪に言葉を落とした。

「ロベルト。俺は近々北軍大将の職を陛下にお返しすることになるだろう。官職からも身を引くつもりだ。心得ておいてくれ」

「旦那様? 陛下のご不興をかわれたのでございますか?」

「いや、これは俺自身の都合だ。近々と言っても後任の引継ぎまではまだ暫くかかるだろうが」

 

まだ何事かを云いたげな執事を残し、さっさと自室に引きこもる。

明かりをつける気も無い私室でロイエンタールは椅子に深く身を沈め、暗闇を見つめる。

ミッターマイヤーとの会話中にすっかり醒めてはいたが、今夜はもう酒にすら手をつける気にはなれなかった。

ミッターマイヤーとの会話は長くも無く、詳しくも無かったが、彼には十分だった。

いや、不十分ではあったが、ロイエンタールの全身を走る鳥肌がそれを補って猶余った。

ロイエンタールはほぼ勘だけで正解を導き出していたのだ。

国王の愛妾。蒼月の正体を。

(・・・・・・ウェンリー)

ロイエンタールの母の末の妹の子供だった。

誰よりも大切だった、いや、大切な幼馴染だ。

男はいらだたしげに指の腹で唇を擦った。

恐らく、自身が気付いたら驚くであろうほど無意識のうちに。

 

蒼月は寝台の脇にあった小さな燭台を吹き消して、体を引きずり起こす。

灯りを消したのは、体中に散らばった赤い鬱血を見たくなかったのだ。

軋む体を無視して水を張った沐浴用の桶まで行くと、足を伝う白濁した液体に気付き眉を顰める。

(・・・・・・、陛下も、お若くていらっしゃることだ・・・)

その一言で、自分より一回り近く若い、縋るような瞳で蒼月をむさぼる男を片付けた。

とりあえず、絞った布で足を拭うと水に体を浸した。

まだ夜は凍えそうなほど冷えると言うのにまったく気にならない風情だ。

左手で水を掬う。

パシャン・・・。

『痛みは受け入れるものだ』

何時覚えた言葉だっただろう?

誰に教えられた言葉だっただろう?

何か優しい面影がよぎったような気がしたが、形にはならなかった。

(私は・・・、受け入れるつもりで痛みを抹消してしまったのか)

少々の後悔でそう思う。

何時の間にか、引き返せないほど精神が摩滅しているらしい。

(それならばしょうがない。私に出来ることをやるまでだ)

表情を動かしもせず髪をかきあげる。

この国の為、彼の気高い従弟のため。

そう、オスカー・フォン・ロイエンタールの住まう国の為に。

ただそれだけの為に、生きると。

涙は、遥か昔に流れることを拒否していた。

 



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