そしてキミに会いに行く  4

 

俺の一番古い記憶は、森の中だった。

俺はそれが生後一月に満たない頃の記憶だと知っている。

俺は、大きなバスケットの中で泣いていた。

母さんが隣に居ることは知っていた。だから、抱いて欲しかったんだと思う。

泣いているうちに、「あの人」が来たんだ。

「おやおや、どーしたのかなぁ?」

その人が俺を抱き上げると、俺は憑き物が落ちたかの如く泣き止んだ。

「お母さん、疲れているみたいだから、暫く寝かせておいてあげようね」

そう、考えてみれば当然だ。母さんは疲れてうたた寝をしていたのだろう。

一人で生まれたばかりの子供の世話をし通しだったんだから。

「いい子だね、お前も眠いのかい?」

優しく静かな声が子守歌のように、俺を眠りの淵へと誘った。

 

次に目がさめたとき、俺はまだ「あの人」の腕の中にいた。

母さんと話し込んでいて、もう終盤に差し掛かっていたらしい。

「それで、これからどうするつもりなの?」

「あの人」が母さんに問う。

「わからないわ、そんなもの」

神経質っぽい母さんの声が硬く答えた。

「じゃあ、この坊やはどうなると思う?」

「わからないわ・・・・、でも、これから考えることは・・・出来るわ」

しっかりした決意の篭った声だった。

「うん、がんばってね」

優しい声に、母さんが張り詰めるように緊張したのがわかった。

多分、次の台詞をいうのに、相当な覚悟が必要だったんだろう。

「あ、あの・・・・・その・・・・・その・・・・・・・あり、ありがとう」

きっと、今まで礼なんて言ったことがなかったんだろう。そんな声だった。

けど、その分力が篭っていて・・・それは俺を抱いていた人にもちゃんと伝わった。

「別に・・・お礼を云われるようなことした覚えもないけど?」

「あなたは・・・・、私の知らなかったことを、教えてくれた。あなたが教えてくれなかったら、私は世界の広さもしらないままだったわ。心から、感謝している」

俺には、これ以前の記憶らしい記憶は無いし、母さんについての記憶はこれ以外にはないけど、多分、母さんの中にいままであったのは、漠然とした不安だけだったんだろう。

今までの狭い世界からはじき出された、ワケの解らない世界で、母さんも、戦っていたんだと思う。

「あなたは、私に恐れることはない・・・と云ってくれたようなもの。私はこれからもこの世界で生きていく。前の世界を忘れることは無いだろうけれど、もう、しがみついていることはない」

「・・・、キミは、自分のこの先の人生の為に判断できるよ」

「あなたに・・・そう云ってもらえると、とても嬉しい。生きていく、勇気が湧いてきた気がする」

母さんが、今までと違っていることはわかった。

心が何か良い方に、そう、建設的な方に動いたのがわかった。

だから、母さんの方に手を伸ばしたんだ。

「ん? 坊やお母さんの方に帰りたいのかい? お前にもわかるんだね、お母さんが元気になったのが」

「あの人」が俺を母さんに返そうとした、ところで手が止まった。

「ああ、そういえばまだ坊やの名前を聞いてもいなかった。聞いていいかな?」

母さんに尋ねると、母さんは横を向いたのだろう。声がくぐもった。

「名前は・・・ないわ。つけていないの」

その声に何かを感じ取ったのか、「あの人」は俺を抱いたままゆっくり立ち上がると、母さんの額にそっと口付けた。まるで宗教画のように。

「あなたの、名前を付けてもいいかしら?」

上目遣いでそう問うた気配がした。

「あの人」は一瞬詰まって云う。

「それは・・・やめといた方がいいと思う・・・とっても」

「そうなの?」

眉を下げて、母さんが不思議そうに問う。

「その代わり・・・といってはアレだけど、よかったら、私がつけても・・・いいかな?」

「それは・・・」

母さんの声がほころんだ。

「それは、あなたの名前を貰うよりいい考えだと思うわ・・・」

「あの人」はにっこり笑って俺を抱き上げた。

多分、この時俺の目は、見えていなかったはずだ。

それ以前に、俺がこの会話を理解できたはずが無い。

何故、それなのに覚えているんだろう。

だったらきっと、DNAに刻み付けられたのだ。

この飲み込まれそうなほど深い黒い瞳は。

「トリスタン。お前の名前はトリスタンだよ。決して忘れてはいけない。そして、この名前ごと、未来へお行き」

 

貴方が忘れるな。と言ったから、俺は今でも覚えている。

俺の名前を、そしてあなたを、そして、母さんを。

「トリスタン?」

「嫌いかな? まぁ、あんまり縁起のいい名前ではないかもしれないけど」

「いいえ、綺麗な響きね」

「この子はきっと父親よりイイ男になるよ。私が保証する」

「え?」

「云い忘れたけど、帝国のロイエンタール提督の旗艦と同じ名前だ」

「・・・・・・・・・・・・あなた・・・・・・・・・だぁれ?」

母さんの顔が怖いものでも見たかのように驚愕で引き攣る。

「ヤン・ウェンリー。この流浪の私兵集団のおかしらさ」

その冴え冴えとした瞳に、母さんは何をみたんだろう?

スッと俺を返して、母さんの目を覗き込んで云う。

「元気で。幸運を祈っているよ。キミと、そしてトリスタンのね」

踵をかえしてそのまま去っていこうとする背中を母さんが引き止めた。

「待って! 待って頂戴!」

拒否されなかったことを驚くように、目を見張ってヤン・ウェンリーが振り向く。

「私の、私の名前も無いの。これから、改めて生きていくから、私の名前もつけてほしいの。お願い!」

きっと、痛みだ。わけのわからない。けど、胸を締め付け、切なくさせる。痛み。

だから、母さんは必死だった。

「それは、自分でつけた方がいい。キミの、可能性の為に」

「あなたの・・・・可能性は?」

「キミと、キミの子供の中に。それで充分だ」

 

もしかしたら、ヤン・ウェンリーは気付いていたのかもしれない。自分の目前に迫った死に。いや、これはただの結果論。

それ以上に、彼の中には何もなかった。ただ宇宙的虚無を抱えていた人。

母さんも、気付いたんだろう。

彼の姿が見えなくなってからも、ずっと泣き続けていた。

「トリスタン」

と俺の名前を呼びながら。

 

覚えているはずの無い、俺の最初の記憶の話。

 

 

『親愛なる叔父上、カール・フォン・ロイエンタール様へ

 

 俺家出するんで、あんたに言っておかなくちゃならないことのために手紙を書くことにしました。

少し現実離れした話だけど、聞いてくれると嬉しい。

 

まず、俺がカールが叔父だということを知っていることに驚いたかもしれないけど、はっきり云って、俺だって今日まで知らなかった。

「あの絵のモデル」のことも、昔から知っていたけど、名前は夕べ知ったんだ。

 

初めてあの人にあったのは、5つのときに見た、ヘンな夢の中だった。

真っ暗な夢だった。

その中で、真っ白で綺麗な飾りのついた扉と、その前に立っている男がいた。

左右の目の色が違うその人は、俺に「開けるか?」と聞いた。

「うん」と俺は何も考えずにそう、答えた。

 

開けた扉の先はフェザーンの森林公園で、そこに「その子」がいたんだ。

リアルな、リアルすぎる夢。

聞こえる声は「その子」のものだけだったけど、視覚も、味覚も、嗅覚も、触覚も、まるで現実と錯覚するほどリアルな夢だった。

俺は、毎晩のようにその子と過ごして・・・俺が父さんの記憶をなぞっていると気付くのにあんまり時間はかからなかったけどね。

 

時間は、一定の方向に流れてた。

俺と、その子は、一緒に大きくなった。ついでに父さんも。

楽しいことも、嬉しいことも、辛いことも、ずっとその子と一緒だった。

 

色々覚えてるよ。

その子がお母さんの形見のスカーフ風で飛ばして、木の枝に引っかかったのを取ろうとして落ちたこととかね。

その衝撃で跳ね起きて、父上と母上の寝室まで飛んでいって「痛いよ、痛いよ」って泣き喚いたから、随分と二人に心配かけちゃったよ。

次の日は次の日で夢の中で身なりのいい、上品そうなおじいさんに、(ロベルトだよね、ロイエンタール家の執事をしてた)怒られたしさぁ。

いや、声は聞こえなかったんだけどね。ずっとその子が泣いてたからさ。

「ごめんなさい、ロベルト」って。なきながら謝ってたから、遊べなかったし。

 

赤ん坊が生まれた時のその子のはしゃぎ様ったらなかったよ。

「赤ちゃんだよ、赤ちゃんだよ、赤ちゃんだよ」って部屋中飛び回ってた。

そうだね、あんたが生まれた日だよ。カール。

 

父さんは、一番初めの夢以外には出てこなかった。

その代わり、白い服を着た人が夢の後半に現れて、毎回毎回茶々入れてったよ。

わかるよね、その子、だよ。死んだ時の年齢だったんだろうと思う。

自分はもう死んでるから、お前の脳が作った幻想だろうって。自分で云ってたけど。

 

今朝、というより夕べ?

また夢に父さんが出てきた。10年ぶりだったよ。

父さんは俺にまた同じことを聞いた、俺は同じ答えを返した。

そしてまた夢を見た。

夢の中で、父さんの声が聞こえた。

その子を呼ぶ声が。

 

まぁ、そーゆー経緯で俺は生まれる前のこと、一応知ってるんだ。

で、今日あんたの絵を見て、「「あの人」を知ってるカール」っていったら父さんの弟しかいないだろう。って気付いて、俺の叔父だってわかったわけ。

説明終わり!

 

家出するのは俺の都合。あんたには連絡するよ。

元気で。

最後に、夢の中で「その人」が俺のことを呼んだ名前で終らせておく。

 

             あんたの甥、トリスタン・フォン・ロイエンタールより』

 

「・・・・・・・・・・」

読み終わったカールは静かに目の前の老人を見る。

100を目前にしたにしては元気そうだが、全身ほどよくくたびれた知的な老紳士だった。

「トリスタン様の、トリスタン様の記憶は確かです。わたくしも、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。あのかたのはしゃぎようと、オスカー様が怪我をした日も」

何かを堪えるように小刻みに震える老人を、カールは直視できずに目を伏せる。

「ロベルト、あいつなら大丈夫だよ。俺たちがやり切れないな。って云って此処で止まっている間にもあいつは前へ・・・未来へ進んでいってる」

 

そこに無粋な通信端末の着信音が響いた。

  

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