宇宙暦783年4月1日 フェザーン
百花咲き乱れる屋敷の前、生後半年にも満たない赤ん坊は、顔を真っ赤にして体中で泣いていた。叫ぶのではない、まだ彼女にそこまでの自我はない。
ただ、それでも、乳飲み子は泣いた。
ただそれだけが、生まれたばかりの彼女に許されたことだったから。
「泣かないで頂戴、エマイユちゃん。母様はあなたに泣かれるととっても悲しい」
「もう行け、ウェンリー」
「オスカーが抱いても泣き止まないなんて、はじめて・・・」
「行けよ、時間なくなる」
「・・・・・・・・・・・・、ボン・シャース。エマイユ。幸せになってね」
壊れ物に触れるかのように優しく優しく撫でる。赤ん坊の髪はふわふわと柔らかい。
春の風はどこまでも優しく、柔らかく、三人を包んでいた。
「オスカー、またね」
「ああ、またな」
ヤンがほのぼのと笑えば、ロイエンタールの腕の中の赤子をもてあまし気味に苦笑する。
はじめから果たされるはずのない約束。
エイプリルフールにかこつけなくては、別れの言葉一つ言えなかったの。
それでも、幸せだった。
幸せな春だったわ。
きっとしあわせ・・・ 第13話
「あーちゃ、あーちゃ」
トーマ・フォン・ファーレンハイト、もうすぐ一歳。
彼はこのごろよく動き回るし、しきりに言葉らしいものも発する。
けれど、動くことと喋ることが一度に出来ない。
ひたすら動き回り、それからひたすら喋り、また動く。
怪獣さながらだが、見ていて飽きないことは飽きない。
ひょい。
「むた」
「めっ。一体なんど言わせるの、トーマ。ヤン元帥は朝からお出かけ。夕方まで帰ってらっしゃらないわ」
エマイユの結婚式から二年が過ぎた。
この二年、エマイユにとっては結婚、妊娠、出産とイベント盛りだくさんで、大変な日々だった。不安に眠れない夜もあった、思わず泣きそうなほど嬉しい日もあった。
けれど、周りの人々に支えられながら、エマイユは中々忙しく充実した日々をすごしている。
大体一日ごとに成長する息子は油断もすきもない。
ただ、息子の相手に忙殺され、母親の行方だけは、いまだつかめないままだったが・・・。
「大体、なんでヤン元帥が「あーちゃ」なのよ。こら、トーマ。ヤン元帥よ、ヤン元帥」
「あっちゃ」
勿論教えたのは君の実母である。エマよ。
「・・・・・・・・・うーん」
悩み始めるエマの腕の中でトーマがまた暴れ始める。
「じいじいじいじい」
あー、またはじまった。この人は3時ごろを過ぎるとすぐこれだ。
「んじゃトーマ、おじいちゃんとこ行って遊んでもらいなさい」
自分の勝利を確信し、オスカー・フォン・ロイエンタールを「じじい」呼ばわりできる恐るべき乳児は満面の笑みを見せる。
「ほんと、あなた「あーちゃ」と「じい」大好きよねえ」
「じい!」
エマイユ・フォン・ファーレンハイトは二十歳になっていた。
初孫の妊娠を知ったヤンの行動は疾風のあだ名を抱く双璧の片割れよりも速かった。
早々に「エマイユ、初めての妊娠で不安でしょうし、体力もいることだから、お仕事はお暇をいただいては?」
とわざわざエマが仕事をやめないように釘をさし。
身近な人間の妊娠にめいっぱい喜んで見せ、言外に大量殺戮者の苦悩と生まれてくる命の喜びとをこれ以上不可能なほど有効な演出で、エマの休みにはエマんちに入り浸り、皇帝にエマが赤ん坊を連れて獅子の泉に出勤してくるよう頼ませもした。
ちなみに、可哀相だが、二人はそう仕向けられたことにこれっぽっちも気づいていない。
今日もヤン・ウェンリーは不敗だった。
てゆーか、孫が可愛いだけのヤンはある意味超極道な人生を満喫していた。
てゆーか、一人勝ち?
「お父様ぁ、すみませんけど、またトーマ預かってくれますか?」
てか、ロイエンタール仕事中である。
「ん? ああ、そこ置いてけ」
書類から目をあげもせず、帝国元帥が広い執務机の一角をさす。
ロイエンタールは相変わらずロイエンタール以外の何者でもなく超マイペースだった。
いつものことなので、執務机に息子を置くと仕事に戻っていく。
最初は戸惑っていた幕僚たちも、大人しく飽きもせずロイエンタールの手の動きをみている赤ん坊に自然に慣れ、今では普通にメロメロだった。
んで、延々とぼーーーっとすらすらと動く祖父の手を見守っているはずのトーマだったが、今日は多少事情が違ったらしい。
「あーちゃあーちゃ」
祖父の目には「お茶犬」にしか見えていない孫がなにやらしきりと繰り返していた。
このお茶犬はこの場にないもののことも口にする。
そういえば同僚の親馬鹿が「ウチの息子はヒトサマんちのこより、心の成長がはやいみたいだなぁ」とかってドリーマーな発言をしていたが、馬鹿の発言なので無視する。
「あーちゃがどうかしたのか? トーマ」
書類を捌く速度は全く変化しない。
「あーちゃぁ・・・」
トーマには未だ「祖父」「祖母」という概念は無いが、子供特有の特殊能力らしきもので、ヤンとロイエンタールが特別な間柄であることをしっかりと認識していた。
「俺が知るか。だいたいこのところはロクに会ってもな・・・・」
「じい?」
「いや、まさかな」
「じいい?」
「なんでもない。・・・さて、次はどの山を片付ける?」
「にゃんにゃん」
「トーマ、これはにゃんにゃんじゃない、書類だ」
なんだかよくわからないが、これでも祖父と孫として成り立っているらしい。
ちなみに、青天の霹靂というのはこういうどーちゅうことない日常に、とんでもない大事件が起こることをいう。
パタン。
「あ。ヤン元帥。お帰りなさいませ」
息子を膝に乗せたロイエンタールと雑談していたエマが気づいてにっこりと笑う。
ちなみに、ロイエンタール的孫の定位置は膝の上だが、孫はお茶犬なのでノープロブレム。
しかしヤンの様子が何かおかしい。春宵の間に入ったが、そのまま考え込んでいるようだ。
「・・・んーー」
「どうかなさったんですか?」
心配でエマイユが寄ってくる。他の提督らも何事かとヤンを見た。
「エマイユ。お土産」
今日は髪を下ろしているヤン。35になったヤンは益々美しくその眼差しは相も変わらず宇宙を写し取ったように深い・・・が、どこか上の空?
「え?はい」
「みんなで食べて」
「はい、ありがとうございま・・・す?」
受け取った四角い包みはずっしりと重い。
「ふむ」
そして、何か決定したようで、エマイユの脇をスルリと抜けていく。
ロイエンタールの傍らまで歩み寄ると、なれた動作でエマイユの息子を抱き上げる。そこまではおかしいことはなにもない。
そのままヤンはロイエンタールを静かに見つめた。
ロイエンタールは傍らに立つヤンを見ようともしなかった。足を組んだまま前だけを見ている。あからさまな無視。
「はなしがあるの」
「聞きたくない」
温かみのない声に思わず腕の中のトーマがビビったが、答えるロイエンタールの声も鉱石のように硬く冷たかった。
「聞いてくれないの?」
鈴を振るような美しく、静かな声。ヤンは爬虫類のような瞳で優しく微笑んでいた。
「聞かない」
「あの、元帥、おとうさ・・・ヒッ!」
(とうさまが、怒ってる!! そんな馬鹿なことが・・・)
ロイエンタールの口癖が「別に俺は困らない」なのは伊達ではないのだ。オスカー・フォン・ロイエンタールは何事にも困らないし、怒らない。何者にも興味がないゆえに。
エマイユはずっとそう思ってきた。実際それは事実だった。エマイユが物心ついてから、今、この瞬間まで。
ヤンを見上げるヘテロクロミアには、明らかな怒気と神秘的な殺気が宿っていた。
「なら聞かなくてもかまわないわ」
うっすらとわらってトーマを抱きしめながらロイエンタールの胸に身を寄せる。
ふわりとロイエンタールの唇に、花弁のような唇が降ってきた。
「ふ・・んっ、あっ、んんんン」
口づけはいっそ与えるように深くお互いを侵食しているようであった。
人々が息を忘れてその光景を警戒する中、腕の中のトーマだけが「おおおおーー」と呑気に目を丸めている。
「というわけで、報告は以上よ。わかったわね」
笑みを消して宣言してから、何事もなかったかのようにスラリと立ち上がる。
「わーかりたくなぁいーー」
「そんなイヤそうにゆわないの。イヤなのはわかってるんだから」
孫を抱いたまま振り向き、ロイエンタールをたしなめる。
「待て、予定日は?」
「ふふっ、あーーきっ♪」
「わかった」
「うん♪」
ロイエンタールに少女のような満面の笑みを見せてから、ヤンは硬直して一歩も動けない一同に機嫌よく向き直る。
「と、いうわけなんだけど、わかった? エマイユ」
「な、何がでしょう。元帥・・・」
なんかとんでもないことが起こった。それはわかる。けど、今のはなんなんだ。
「わからなかった? うーん、そうなの・・・。じゃあ簡単に説明するわね」
腕の中のトーマを優しく抱きしめながら、ヤンはにっこりにこにこと爆弾発言を投下した。
「なな、なーーんと、わたしに赤ちゃんができたのでーーっすw」
その威力はトゥール・ハンマー並み。
「はああああああああああああ!!!!?」(一同)
「どうした!! 何事なのだ!!!」
「あら、陛下。今ちょっとみなさんにビックリしていただいただけですわ」
慌てふためいて駆け込んできた皇帝に、ヤンがにっこりと罪のない笑顔を向ける。
「びっくり? なんなのだ、それは・・・」
「わたしに、子供ができたんですの」
↑とっても嬉しい。
ここにローエングラム朝は幕を閉じた。
とかだったら面白かったのにな。
「ってちょっと待ってください、元帥! 元帥に子供って、子供って!」
「やだぁエマ。わたしだって生身の女なんだから、妊娠くらいできるわよ」
「で、出来るわよぉって。相手、相手は・・・」
「あなたの父親よ?」(←笑顔)
「って」
「弟と妹、どっちが産まれるかしらね?」
「げん・・・っすい・・・・」
「あら、その様子だと、ちぃっとも気づいてなかったのかしら? なら教えるわ」
「何を」
「クイズの答えは、「わたし」よ」
「クイズ?」
「わたしだって、フェザーンにいる、女で、オスカー・フォン・ロイエンタールと同い年なのよ?」
「っ。お母様・・・・」
「あなたにそう呼ばれるのははじめてね、とても嬉しいわ。吾子」
「げ、元帥閣下がお母様・・・お母様がヤン元帥・・・」
「納得していただけたかしら?」
ヤンは人質としてこのフェザーンに住んでいる。
戸籍を浚っても出てこなかったのは当然。戸籍をいくら整備しても意味がなかったのだ。
フラウ・ロイエンタールは、「魔女」としかいいようのない笑顔で微笑んでいた。
「ちょっとまて、ウェンリー」
絶好調で巻き込まれたら鬱になりそうな殺気を撒き散らす男が低く呼び止める。
「ん? なーに、オスカー」
ヤンはのほほんだが、その腕の中の孫はさっきから漏れてくる瘴気から必死こいて逃げようとしている。
「どれだけ考えても、身に覚えがサッパリないんだが・・・」
「んーー、でしょうねぇ」
「もしかして、俺は一服盛られたのか?」
「ふふふ」
「フフフ」
そして今ここに熱き戦いの火蓋が・・・
「こんちゃーーっす」
「こんばんわぁーーーー、お邪魔しますぅーーー」
切って落とされなかった。
続く
ふふふ、もっかい云いますけど、みなさんなんのために、このシリーズのヤン元帥を女性にしたと思ってたんですか?
女にしたなら、女にしただけのことはやってのけないと。
当然。