「ヤンさんに子供がいることは前から知っていたのよ」

帰ってきてからヤンの様子を妻に報告していたキャゼルヌが、なぜ答えがわかったのだ、と問うていたときのことだ。

オルタンスはそう語りはじめた。

「って、そっからしておかしいだろうが! なんだってヤンのやつに子供がいるんだ!」

「なぜ、おかしいの? 実際にいたじゃない」

「じ、実際に・・ってそりゃぁ・・・」

「シャルロット・フィリスが生まれたばかりのころ。あなた覚えていて? ラップさんとエドワーズさん、アッテンボローさんと四人でうちにお招きしたことがあったでしょう?」

「あった・・・あったか? あっただろうな・・・・」

覚えていないキャゼルヌが首を捻っている。その前に妻はコーヒーを置き、自分も向かいに座る。

「あったの。ラップさんとエドワーズさんとアッテンボローさんは興味津々でつついたりしてたのだけど、ヤンさんだけはちょっと離れて・・・けど目はシャルロットに固定されていて。不思議だな、と思っていたんだけど、そのうち・・・あの子ぐずりはじめて・・・。ラップさんたちが一生懸命あやしてくれたんだけど、大泣きしちゃって。顔を上げたらヤンさんが今にも倒れそうな真っ青な顔をしていたの。それで具合が悪いから・・・って云って飛び出して・・・」

「思い出した! お前あの時俺に押し付けて追いかけてっただろう。抱いてれば泣き止むって、あの時すっごい焦ったんだぞ!」

「子育てに必要なのは度胸です。・・・で、あんまりにも真っ青な顔だったから追いかけたら公園のベンチにうずくまっていて・・・」

 

『ヤンさん? 大丈夫なの? 苦しい?』

『オルタンスさ・・・』

カタカタ震えて、歯を食いしばって。泣きながら、それでも私を見て無理に笑おうとしたわ。

私は追いかけるべきではなかったのよ。

『わたし・・・ダメなんです。子供が・・・、赤ん坊が泣くのを見ると、どうしても・・・』

『ヤンさん? でも、赤ん坊は理由がなくて泣いているのではないわ』

私も子供が産まれたばかりで、少し神経過敏になっていたのかもしれない。

つい、咎めるような口調になっていたのでしょうね。

『理由があるから! 理由があるから・・・わたしに出来ることならなんでもしたのにっ。わたしは応えなかったから・・・』

『ヤンさん、あなた・・・・・』

『ごめんなさい、ごめんなさい。ごめん・・・ごめんねぇ・・・泣かないで、泣かないでお願いだから・・・、仕方なかったなんて死んでもゆわないから! ごめん・・・ごめんなさい・・・』

 

「云っては悪いのだけど、私は、その・・・ヤンさんが堕胎したんじゃないかと思っていたの。それぐらいヤンさんは怯えて、怯えきっていて・・・」

「あのヤンが・・・」

「私も意外だった。けれどだから下の子が産まれた時は大分たつまでお呼びしなかったの。気にしないで、私はヤンさんの味方になりたい。って伝えたかったんだけど、結局上手く伝えられなくて。どこか怯えた目のまま・・・」

「けど・・・ヤンはお前のこと好きだぞ? 多分」

夫がそういうと、彼女は妻としてより、母としてより、女を感じさせる苦笑を浮かべた。

「私も、そのつもりよ」

(だけど・・・ねぇ、あの時・・・・・・エマイユ? オスカー? そんな名前だったかしら?)

 

    きっとしあわせ・・・  第10話

 

 

落ち葉が窓の外を舞っている

窓辺にたたずむヤンはぼけーーっとその様を眺めている、まるで一枚の絵画のようであった。

(唐突だが、今は秋なのだ。そう決めた。このハナシには今まで季節が全然出てこなかったが、それは細かいこと考えるのが面倒だったからに他ならない。

つーことは、多分新帝国暦1年の秋ってことになる。私のハナシだと即位と遷都が同時なので、遷都なんてモンがそう迅速に運ぶべくもないのだが、そのへんは気にしないでもらいたい。ビバ・ご都合主義!)

「今頃、ウチの金木犀は・・・」

 

「で、マリエはどのようなものが希望ですか? お嬢様」

「は?」

家に帰るなり云われた一言に、エマイユは笑顔のまま固まった。

家中に蔓延する暴力的に甘い香りに脳みそが汚染されそうだ。

「あ、あのーー。おじいちゃん?」

そういえば裏に金木犀の木があったかもしれない。あまりに大きかったので、咲くまでそうとは気づかなかった。そうか、あのサイズになるとここまで猛威をふるうのか。

「冗談ではございませんぞ。この結婚をお嬢様が如何様に考えておられましょうとも、こればかりは早めにお願いいたします。いくらマリア・リーベルトが常軌を逸した家事処理能力を持ちましょうとも、ローブ・ド・マリエを他の衣装と同じく考えてくださいますな」

「ど、どんなって・・・」

「オーディンの屋敷の者たちがヴェールを用意しているそうですから、とりあえずはオーソドックスな純白のマリエになりそうですが、どんな支度でも用意できますぞ。お嬢様の結婚の費用に関しましては奥様から上限値ナシの宣言を頂いておりますから。極端に言えば、ロイエンタール家の財産すべてを使って式を挙げることも可能です」

「ムッターが!? けど、それはお母様の意見なのでしょう?お父様は?」

「奥様は当家の奥様なのですよ? 勿論その権限は旦那様と同じです」

誇らしげにロベルトは微笑む。どう間違ってもオーディンの常識ではない。

「けど、どんな衣装がお好みですかって・・・」

「どんな様式の式をお望みでも、そのほとんどが叶えられると思ってください。そもそも、どう間違っても衣装の心配だけはないのです」

「何故?」

「話せば長くなるのですが・・・お嬢様のお祖父様、シュテファン・フォン・ロイエンタール様はフェザーンでは名の知れたアンティーク・コレクターでした。そのシュテファン様が生前もっとも心血を注いで集めておられたのが、衣装。主に女性の民族衣装です。布というのは他の骨董品と比べて長持ちがしないものなので、複製でございますが、材料費と手間が掛かりすぎるので絶対数が少ないという意味では骨董品並みの値打ちがございます。

シュテファン様はそれをすべて奥様に用意されました。当時幼い奥様の毎日の服はおろか、一生のうち困らないほどの衣装や服地をです。ウチの奥様は宇宙一の衣装持ちですな。

婚礼衣装に至ってはお色直しが50回は出来そうなほどです。今の時代に一番ポピュラーな白の布地だけで数種類、30着は作れます。その他、地球時代の各地の婚礼衣装もほとんどコンプリートしております。あまりの量に近所の呉服屋さんに預かっていただいておりますがね。

それらはシュテファン様亡き今、すべて奥様のもの。奥様も結婚のご予定はないので、せめてお嬢様が使ってくれれば嬉しいとの仰せでございます」

「い、衣装については、そういえばヤン元帥がこの前、私にはナントカっていうのが似合うんじゃないかって言ってたから、もう一度詳しく聞いてから、マリアと相談するんじゃダメかしら?」

ロベルトの眉間にごく僅かにしわが寄る。けれどもうジジイで顔中しわだらけなので、エマイユは気づかない。彼は自分の女主人の根回しの深さに苦虫を噛み潰していた。この分では彼女がエマイユに施した無意識の障壁はそう簡単に崩れないのだろう。が、そんなことはもちろん気取られるヘマなどしない。しれっと答える。

「はい。結構でございます。お嬢様がうやむやのうちに結婚を伸ばし伸ばしにしなければそれで十分でございますから」

さすがに曽祖父の代から仕えている老人は、エマイユの性格をよく知っている。

「それより、おじいちゃん。お母様はいつおっしゃったの? 最近?」

「そうですね、一番最近お帰りになられたのは、三日前ですか」

「三日!?」

「ここは奥様の実家ですから、旦那様が仕事中でもかまわず帰っておいでですよ。勿論、我々には奥様に閉ざす門などございません」

きっぱりと言い切った老人に、エマイユはしばしうつむいて黙り込む。

「・・・お母様のおうちはここなの?」

「はい」

「お父様のおうちも?」

「はい」

「だから、「お母様はいつ帰られるの?」と私が聞いても、お父様は帰ってこないとおっしゃったのね」

「ここは、奥様にとってはどこにも代えがたい家なのでしょう。わたくしは、此処に立っていると心から不思議なのでございますよ。手すり一つとっても床の木目一つとっても思いでに溢れていて、ここで遊びまわっていた奥様と旦那様が思い出せるのに、それが思い出だということが」

そういって老人は愛しげに柱の傷を撫でた。

「あの木が見えますか? 昔あの木には花ぶらんこがありました。春には降り注ぐ花で夢のようでございましたよ。奥様はお嬢様をかごに乗せて楽しそうに揺らしておいででした」

エマイユは庭を見るが、今はどうにも秋なので感覚がつかめない。けれど金木犀の甘い甘い香りはここが「家」であることを教えているようだった。

「お嬢様がいて、奥様がいて、旦那様がいる。本当に、夢のような春でございましたよ」

「・・・・・・・・・・私も」

「? ええ、そうでございますよ。お嬢様がフェザーンのお生まれだということはお聞きになったのでしょう?」

「なんだけど、私とお母様がいっしょにココにいたということがちょっと実感が湧かないの」

「それは仕方ありません。お嬢様は、あまりにお小さかったのですから」

「でも、私は確かにこの庭にいたのよね・・・」

思いつめたように言うエマに、ロベルトはわざとさりげなく言った。

「ハンスに言って、昔のようにぶらんこをつけてもらいましょうかねぇ」

 

続きの間のティーテーブルに背を向けて、ヤンが窓辺に立っている。

「つまらないことを思い出していましたのよ、陛下」

ラインハルトは席についたまま、ヤンの背を見つめていた。

「自分の心は、自分の思い通りになるものでしょうか?」

「自分の、心? 自分の心は自分のものだろう?」

「ええ、勿論。わたしのものですわ。けれどわたしの心はわたしの自由になりません。そんなものじゃありませんか?」

振り向いてヤンは穏やかに微笑む。

「初めてあった日から、わたしにはあの男しかいませんでした。たとえ振られ続けでも。あれがどんなに退屈な、つまらない男でも。もし、わたしの心がわたしの自由になるものでしたら決してあの男には惚れませんでしたのに」

クスリと笑う。

「繰言ですわね。いつまでも恋々と。けれどその分陛下の気持ちもわかるつもりですわ。片思いだからとそう簡単に思い切れるものではありませんのよね」

一緒にしないで欲しい。てか、その台詞はあまりに酷い。

そのときふと金木犀の香りが部屋に入り込んでくる。ヤンはにっこりと微笑んだ。

「本当に、つまらない男なのよ。わたしがこんなに愛しているのにちっとも応えてはくれないの。イヤな奴よね。朴念仁。いつも退屈してるんだから、暇なときくらい好きになってくれてもいいじゃない。嫌い。大嫌い。楽しいことなんてちっともないのよ。でも・・・・なんでこんなに幸せなのかしらね?」

夢見るようにヤンの唇が笑みを刻む。

「時折気まぐれに優しいから、うんざりして死にたくなったりもするのよ。こんなものよこしたりね」

ちゃらんとヤンの左の手首に巻かれていた鎖がなる。華奢な腕に華奢な装飾が似合うが、これは・・・。

「トランシーバー。一人にしかかかりませんの。「お前、ヤバい時は自分でなんとかするが。どうでもいい時は極端に危ないから、どうでもいい時にかけてこい」なんて。どう言い訳しても、わたしを一番知ってるのはあの男なのに。知りすぎてるから、どうにもならないのかしら?

とりあげますか? コレ」

そう、フツウに考えて人質の持っていていいものではない。なんのためにFTLを盗聴していると思っているのだ。

けれど、それは出来ない。彼女には逆らえない何かがあった。恐いか? そうかもしれない。

ヤンの笑みに冷たい炎が灯る。

「あれを一番知っているのもわたし。わたしが愛そうが愛すまいがわたしたちの関係が変わるはずがない。何も変わらない。だったらなぜわざわざ愛すのかしら? あてつけ? 嫌がらせ? そうかもしれないわね」

ヤンは自らをあざ笑う。冷徹な眼差しをエマにむけた。

「わたしはヤン・ウェンリー。元同盟の元帥。希代のペテン師。人類史上もっとも大量の死を生み出した女。 けれどね、わたしはそんな風聞以上に酷い女なのよ」

その人柄を尊敬している人だった。けれど彼女は今、誰よりも艶やかに微笑む。

「それでも貴女は「奇跡のヤン」だ」

ラインハルトの抗弁を、鼻で笑う。

「奇跡? あんなものが奇跡であるものですか。あれは奇跡ではなく子供だまし。わたしが本当におこした奇跡はただ一度しかないわ。エマ」

「はい?」

とまどうエマにヤンはさらに微笑んだ。

「エマイユ。わたしは噂にたがわぬひどい女なのよ。

よく見ておくことね。  こんな女になりたくないのなら」

美しい笑みに、同僚らヤンを忌む帝国臣民を思い出し、思わず言い募る。

「げ、元帥は優しい方です! 酷くなんてありません、世間の人々は誤解してるんです!」

「そうかしら? わたしは貴女に優しくしたいから優しくしようと思って優しくしているのよ。優しい人間はそんなことを考えるかしら?」

「そ。そんなの・・・知りません! 私は元帥がただ好きなだけです」

エマは前を見ずに叫んだが、ヤンは酷く傷ついた顔をした。

ほぅとため息を吐く。

「わたしは、あなたたちに何をいいたかったのかしらね? 今日はわたしの心がいつもよりも言うことを聞いてくれないようだわ。

もう休みます。朝まで起こさないでね」

といわれてもまだ夕方にもならない時刻だ。きょとんとする二人の顔が兄妹のようでヤンはふきだす。

エマイユとハルトを扉まで追い立てるヤンだったが、扉を閉めるときに不意にエマイユに微笑みかける。

「金木犀。 懐かしいわね。母が好きだったのよ。ウチにも木があったわ」

別に母のウチとは言っていない。

「はい。おうちの金木犀が満開だったんです」

「そう、満開なのね・・・」

(今年も)

「凄く大きい木なので、一度元帥にも見に来て欲しいです」

「そうね、キレイかはわからないけど、迫力はありそうだわ」

その笑顔にエマイユはぼんやりと思う。

――心が言うことを聞かないというのは本当みたい。だって、いつもよりイキイキしてらっしゃるもの・・・・。

 

 

狭い店だった。

か細い音楽だけが満たされている豊かな空間。

オーベルシュタインが初めてつれてこられた店だったが、ロイエンタールはなじみのようだ。

表には「カサノヴァ・サーカス」と看板が下がっていたが・・・。

どのへんがカサノヴァでどのへんがサーカスなんだ?

雰囲気は悪くない店だ。

酒もいいのが揃っている。

二人は酒盃を傾けながら、取り留めのない話をしていた。

何杯目かのおかわりをロイエンタールが要求したところで、不意に彼が話題を変えた。

「そういえば、うちの金木犀が満開だったんだよな・・・」

「は?」

「いや、あの馬鹿と何か約束したはずだったんだよな・・・金木犀が満開になったら・・・」

その時ドアベルがなり、その夜風とともにその金木犀の香りが入ってきた。

オーベルシュタインは女客だとだけ認識して同僚の言葉を反芻する。それにしても赤いドレスだ。

「あの馬鹿ってのは・・・」

ここしばらくの成り行きで「あの馬鹿=ヤン・ウェンリー」だとは学習した。

けれど・・・。

「コーヒー」

麗しい声が耳をくすぐる。先ほどの女の声らしい。

振り向いて軽くみると、長い黒髪の美しい女だった。赤い唇が高慢そうにマスターに微笑んでいる。気は強そうだが、扇情的な本物の良い女だ。

女の態度から、彼女もまたこの店のなじみらしいことがわかる。マスターの返答は僅かならずオーベルシュタインを絶句させた。

「イヤです」

流石にこの返事は聞いたことがない。

「イジワルいわないで。ここのコーヒーはフェザーン一なんでしょう?」

昼間喫茶をやっているこのバーは知る人ぞ知るオリジナルブレンドのコーヒーとそのドリップが絶品という店だった。夜も一応メニューには載っている。

「私の紅茶も中々のものだと己惚れているのですがね? わざわざ嫌いな飲み物を注文することもないでしょう」

「嫌いだからって飲んじゃだめってことはないでしょう? たまに飲みたくなるの」

甘えるような、挑発するような声だ。

彼らのやりとりと聞き、それまで関心も払っていなかったロイエンタールが口を開く。

「飲ませてやれ、サヴィ」

涼やかな声が穏やかな空気を切り裂く。

ヘテロクロミアの流し目がオーベルシュタインを通り過ぎて女にぶつかった。

「おごりだ」

(口説く気か!! こんなのがタイプなのか!! てか、これがロイエンタールが女口説く時の手か!?)

しかしこれはどれも不本意な感想なのだ。

「んふふ、というわけ。ちょうだい、サヴィ」

はぁとどでかいため息をついて豆を炒り始める。コーヒー淹れるのには時間がかかるのだ。

女が毒々しい流し目を返した。

「ありがと、オスカー」

(なんだ、この女ロイエンタールの知人か?)

しかし自分を間に挟んでこのやり取りは有り難くない・・・

「ところで、ウェンリー」

「はぁっ!?」

↑オーベです。

「えっ、ヤダ、オーベルシュタイン閣下、気づいてなかったんですか?」

「今のでお前の義眼の性能が知れたな」

「えーー、なんでかしら? 特に変装した覚えもないのに」

「ヤン・・・元帥」

そうだ、確かによく見るとヤンだ。間違いない。けれどまったく気づかなかった。

「いつもズルズルとした服装しか見ていなかったから・・・」

今のヤンの格好は体のラインが優美に出た肌の露出の多いフェザーン風のドレスだ。いつもの服装も似合っていたが、正反対のようなこの服装も不思議と似合っている。

別に変装などヒトツもしていない。けれど元々の顔立ちが地味なヤンは服装の傾向を変えるだけで手軽に雰囲気をかえられるのだ。

「ああそうだ、このドレス。ウチのクローゼットにあったから勝手に着たけどいいのよね?」

「お前の服をお前がきて悪いことはないだろ」

「これわたしに似合ってるわ」

「俺がお前の見立て損ねたことがあったか?」

「ないわ」

だから、こーゆー会話を・・・

「だから、そんなのらくらした会話を私を挟んでするな!!」

この席イヤだ!!!

だが、オーベルシュタインの叫びも空しく銀河一イヤなカップルは席替えをする気はまったくないようだ。

お互い他人事のように頬杖をついて立ち上がったオーベルシュタインを見上げている。

(線対称だ・・・)

「ところで、ウェンリー、なんでこんなところにいるんだ?」

なんでもないことのようにそもそもの台詞を吐く。

「そりゃ、待てど暮らせどお前が帰ってこないからよ。多分ここだろうと思ったら案の定いるし。もっと早く帰ってきなさいよ」

「別に仕事帰りに飲みに行くのに何が悪い? いつものことだろう? なにか約束があるわけでなし・・・」

その台詞にヤンは前を向いたまま、低くつぶやいた。

「約束、したじゃない」

一瞬ホンキなのかすねているのかわからないことをいったヤンだったが、直ぐに話を逸らした。

「あ、そうそう、ウチといえば・・・エマイユだけど」

彼女の一人娘の名前に男二人がヤンの顔を見る。

「あの子・・・「わたしの部屋」のこと、気づいてないみたいね」

なんのことかわからない台詞だが、ロイにはわかったようだ。

「あー・・・気づかなかったのか。なら無理だろ」

「わたしの部屋調べられたら結構ヒントなのにね。このドレスとか私物も結構あるし。鍵かけてるわけじゃないし」

「てゆか、そもそもお前の部屋は今エマが使ってる部屋だったんだぞ?」

「えーー、ああそうだっけ? そんな大昔のこと忘れたわよ」

「大昔・・・たしかに大昔だな」

「ねっ」

と、ヤンの前に壮年のマスターが静かにカップを置く。コーヒー好きにはたまらない芳香だ。ヤンにとってはどうだか知らないが・・・。

「豆の香りは嫌いじゃないのよ。豆は好きな食材だし。納豆だって食べるし・・・」

優雅な仕草でカップを唇に運ぶ。一口。そして一言。

「おいしくないぃ〜〜〜」

テーブルにへばりついたヤンに、マスターが眉間を押さえる。

「だから貴女に珈琲飲ませるのはイヤなんですよ。私だって一人の珈琲を愛するもの。嫌いな人間に飲ませるのは珈琲に対する冒涜ですよ」

しかも彼はコーヒーだけを愛しているわけではないのだ。酒も紅茶や中国茶などの嗜好品も心から愛している。

「いいじゃない、キライだろうとなんだろうと、発作的に飲みたくなる時がくるのよ。サヴィのコーヒーはフェザーン一マシな味なのよ。」

ゲシゲシ。

ヤンはハイヒールのつま先でカウンターを蹴った。

「それでね、ウチの金木犀が満開だったのね?」

ヤンはロイエンタールを見ないままロイエンタールに言った。否、二人にとってはそれはごくフツウのことらしい。

「ああ、そういや昔なんか約束したよな。ウチの金木犀が満開になったら・・・なんだった?」

「まーた今年も忘れてる。お前が忘れるから、約束にしたし、わざわざ抜け出してきたのに」

「というか、そんなあっさり抜け出してこられると、軍としては非常に困るのだが・・・」

居心地の悪い思いをしていたオーベルシュタインがこればかりは本気で苦言を呈す。

「あら、オーベルシュタイン閣下、オスカーにやれることなら、わたしだってできますわよ。それにオスカーが「道」、つけてくれたし」

「っロイエンタールーーーぅ」

本気で光る義眼に一瞬あせったロイエンタールだったが、その時ふわりと肩に手がかけられ、ついでこめかみに優しい唇。

「オスカー、部屋にエマからのプレゼントがあったわよ。愛されてるわね、パーパ?」

ヤンがロイエンタールの背中を抱いていた。

「プレゼン・・・ああ。そうだったのか」

「誕生日おめでとう、ううん、ありがとう。生まれてきてくれて。オスカーがいるから、エマがいるの、本当に、本当に感謝してるのよ」

「お前・・・本当にそれだけの用件できたのか? バトルなしでか?」

「たまにそんなのもいいでしょ? だって、いつもやってたら本気で嫌われちゃうじゃない?」

いつもロイエンタールが見ているのとは違う、優しい笑顔だ。

「いつもこんなだと、俺もお前のこと好きになれるんだけどな。・・・たった一人の幼馴染だ」

「それは無理、諦めて。わたしのこと愛してるんでしょ?」

「お前が、男だったらよかったのに」

ヤンの笑顔が引きつる。

「お前、本気でいったわね・・・まぁ、でも、ホントに、わたしが男だったら、もっと仲良くなれたでしょうね」

「俺はもっと大事にしたぞ?」

「かもしれないわね。でもそれならエマイユはいなかった。だからどうとは言わないわ。けどそれは事実なの。それだけは覚えといてね」

もう一度頬にキスしてヤンは身を返した。

「戻るわ。おやすみ、オスカー」

「おやすみ」

 

「今日が・・・誕生日だったのか? ロイエンタール」

「だったみたいだな」

ロイエンタールは新しく作られたグラスをくるくると回す。

「まぁいい、どうせ来年もあいつが覚えてるだろ」

その何気ない一言に、オーベルシュタインはロイエンタールとヤンの人格形成の過程を見た思いがした。この二人は、こんな風に育ってきたのだ。

「別に自分の誕生日なんて覚えなくても支障ない」

「契約書とかで結構要るだろ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それもそうだな」

といってロイエンタールが反省していたのは30秒きっかりだったが。


フェザーンロイエンタール邸の金木犀は10月26日に満開なのです。そういう気候なのです。
気にしないで〜

ちなみに、今回のヤン提督の台詞は「異国館ダンディ」の不比等ママこと愛希子さんから。
好きなの、この台詞♪
ご存知の方は愛希子さんのあの目の雰囲気で読んでください。私が書くと迫力不足。

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