懐かしい出会いとこれからの思い出  かこへん そのよん
 
「グリルパルツァー、報告したいことは以上か?」
ロイエンタールが、すっかりおなじみとなったあの笑みを浮かべて問うたとき、グリルパルツァーの背筋に戦慄が走った。
彼が、この総督が「報告すべきこと」ではなく、「報告したいこと」と明確な意図を持って尋ねたことを理解したからだ。
「はい、閣下」
グリルパルツァーは苦しげな顔を見られたくなくて、恭しく頭を下げた。心から。
「報告は以上です」
 
「フラウ・ファーレンハイト。いつからだったでしょうか?」
「え?」
後年、エルスハイマーはこのときの出来事を首をかしげながら、繰り返し述懐することになるが、
反逆したロイエンタールが、彼らエルスハイマー夫妻とファーレンハイトの妻子をまとめて軟禁したことは、どう贔屓目にみても、彼ら四人全員のためだったと思う。
監視の便のため、との説明だったが、どう考えてもこの場合は結託の危険を避けるのが常道だったはずだ。
ただ、ファーレンハイト夫人を幼子と二人にしておくのは良くなかったろうし、エルスハイマーの妻が、兄の死から思ったよりはやく立ち直ったのは、幼子に対する人の本能にも似た庇護心からだったろう。
『幼児の荷物の移動が面倒だから、こっちこい』と、ハイネセンのロイエンタール邸に軟禁されたのは閉口したが、非常の際だと思えば、この異色な共同生活もなかなか円滑だったと思っている。
ファーレンハイト夫人が自分の分もついでにお茶を淹れてくれたので、エルスハイマーはいつのころからか溜まっていた胸中の不安を、この年若い夫人に吐露した。
「ロイエンタール閣下は、いつからあのように微笑むようになったのでしたか」
美しく、穏やかで、空虚な。まるで、この世に存在していないかのような笑みを。
 
ウルヴァシーからの反逆事件をはじめて聞いたとき、エルスハイマーがカイザーの出頭命令に感じたのは、
まごうことなき憤怒と憎悪だった。皇帝に対して。
ふざけるな、と思った。
ロイエンタールほど総督に相応しい人物はいなかったというのに、本国はなにをたわごとをいうのかと。
それほど信の置けない相手なら、なぜ多大な権力を一人にまかせ総督に任じたのかと皇帝を呪いそうになった。
そうだ、独立しよう。と新領土を独立国家にするところまで一足飛びに思考がいき掛けた。
反逆の是非を総督に問い質したのですら、義兄ルッツに対しての義理を果たして、素直に軍門に下ろうと思ったゆえであった。
ところがこれ幸いと・・・間違いない。あの時のロイエンタール総督の瞳に浮かんだ光は、口癖のように呟いていた「俺は運がいい」というときと同じだった・・・軟禁されてしまったのだ。
その鼻歌でも歌いだしそうな気軽な反逆者に、これは皇帝と口裏を合わせた大掛かりな陽動作戦ではないかとさえ疑った。
事務仕事とともに、事後の始末を押し付けられたと気づいたときには、反逆事件がおわり、ミッターマイヤー閣下がハイネセンを去った後だったのだが。
 
魔女の死後、惑乱と錯綜を極めたあのハイネセンで、だれがあれほどまで速やかに正常化に向かえただろうか?
誰もが万策つき、手を上げる中で、あの総督は一人愉快げに笑っていた。
あまりにも複雑に絡まりすぎて、もはや誰も断ち切ることしか考えられなくなった毛糸のようにやっかいな新領土で、
たやすく、速やかに、そして丁寧に混乱をひとつひとつ解いていった。
頭を抱えて胃に穴が開きそうな私が夜中に私邸に押しかけたときも・・・彼は直接の部下の誰にもそれを許していたが、なかなか実行はできない。そのときの私の苦悩を誰か思って欲しい・・・いつもの笑みで機嫌よく私を迎え入れ、もっとも信頼すべき教師がそうするように・・・ただし、話に聞くだけでそんなものは見たことがないが・・・私の話をくわしく丁寧に聞いてくれ、解決の一助となってくれた。
恐縮し、感謝し、不思議がる私に、総督はあっさりと云った。
別に私に同情しているわけでも、新領土民に同情しているわけでもないと。ただ、相手に感情があることを計算に入れているだけだと。
そう、相手の感情をそろばんの勘定にいれることだけで、問題の大半は著しく軽減するのだ。なんということだ!
そして、いつもの笑みでなおも云った。
問題が表面化する前に考慮できて、俺は運がいい。と。
連日の激務の中、夜中に起こされていえる台詞だろうか?・・・赤ん坊は社会の都合と無縁に泣くものだ。と云って笑っていたし、ファーレンハイト夫人とその赤子も、私が訪ねたときに起きていて、それはまったく事実なのかもしれなかったが・・・
俺は運がいい。そう云った瞬間、事実がそう捻じ曲がるのだ。
以来私は今にいたるまで、問題がおきると「私は運がいい」と一言云ってから対処にあたる。
まず、この事態をありとあらゆる側面から見て、自分にとって都合が良いことを探し出す。するとその時、この一言は、まったくじっさい役にたつのだ。
私が帝国政府において有能だと評価されているのは、この二つのこと、ひいてはロイエンタール総督のおかげである。
さらに云えば、当時の私は気づかなかったが、その時抱えていた問題ではなく、これから起こるだろう問題を考えて、胃に穴が開きそうなほど悩んでいたのだ。
その助言を入れて、後日旧同盟人らに提示した条件は、ずいぶんと彼らに譲歩したものになっていたが、後々立案どおりの結果を得る事ができた。不思議だ。
翌日、総督に話を聞いたらしく、わざわざ訪ねてちょっと仕事を手伝ってくれた元帥府の一人の思いやりに満ちた言葉は、苦悩に疲れた私をとても癒してくれた。
カイザー・ラインハルト政権下における、武官と文官の壁は厚い。新領土総督府といえど、武官が主体になることが多い。
けれども、かの元帥府の人々は、とても気持ちのいい人間ばかりだった。
進取の気風に溢れ、新しいもの、時代を作る創造の喜びに満ちていた。
どれほどの人間が気づいているだろうか? 今にいたるまで、もっとも新領土に恩恵をもたらした総督が、
反逆者となったロイエンタール総督だと。
部署は違えど彼らと同じ目的に向かえることに、誇りと喜びを感じていた。何人か、個人的に親しくもなったのだ。
だから、恐ろしい予想がよぎるときがある。
あの穏やかな、そして賢いグリルパルツァー提督が、
なぜ、よりにもよって、あの、最悪の一瞬に反旗を翻したのか。
そう、まるで狙いすましたように。
 
いつのときだっただろうか、総督がいつもの笑みを浮かべて云った一言には、さすがに戦慄が禁じえなかった。
「俺の都合の悪い事は、なにも起こらない。なにも俺を邪魔しない」
なにを、そんなばかな。と云おうとした。民事長官として、彼がどれだけの理不尽とトラブルのなかに居たかしっていたからだ。
「昔はそうでもなかった。なにをやってもうまくいかなかった。最近だな。とても自由に感じる。体が軽い」
そうしていつもの、まるで現実に存在していないかのような悠然とした笑みをうかべるのだった。
私は大いに戸惑った。彼が云っていることが、本当に理解できなかった。
「子供の頃、俺に一つ約束させようとしたヤツがいた。当時の俺は、面倒くさくて厄介だと思ったから、即座に断った。けれど最近それが果たせてな」
悠然とした、薄っぺらな苦笑だった。
「約束はしなかったが、破りたくないといつも気にしていた。破らなくてすむのなら、いつもそちらを選んだ。そうしているうちに、約束が果たせた」
後悔しているような、していないような。
「けれど、相手にとっては約束していないことなんだよな。それを思うと、すこし哀れだった。それからだな。俺の邪魔をするものは、何もない。俺に、嫌なことはなにも起こらない。とても、気楽だ」
 
それをフラウ・ファーレンハイトに相談したとき、夫人は滅多にないつらそうな顔をして、違うことを云った。
「多分、同じ頃からだと思うんですが、きっと、ロイエンタール閣下は、睡眠障害だと思います」
「ナルコレプシー・・・?」
「いえ、わからないんですが、多分。ほとんど眠っていないと思います」
「そんな馬鹿な! 人は眠らずに生きていけないものですよ。集中力も体力も、あんなレベルで維持できるはずがないんです。フラウ・ファーレンハイト」
「・・・本当にわからないんですが。夜中にトーマが泣くと、いつも私より先に起きているんです。部屋の掃除をしても、ベットもほとんど使った形跡がなくて。一度問い詰めましたけど、あまり眠っていないと認めてくださいました。けれど、疲労もたまらないし、ストレスも感じないし、あまり支障がないから医者にかかる気はない。むしろ、体調は良いと・・・。そんなことってあるものでしょうか?」
「まさか、そんな・・・」
エルスハイマーは。ただ首を振った。とてもじゃないが、信じられない。けれど、くまも出来ていないし、顔色が悪くなってもいなかった。そんなことあるものだろうか?
ベッドに入らず、灯りもつけず、窓辺に置いた椅子に一晩中座って外を眺めている。
そんな幻視をむりに振り払った。
「先ほどのお話ですけど・・・、二つの解釈ができると思うんです」
うつむいて、躊躇いがちに口に出した。
「一つは、一番辛いことはもう終わったという解釈。もう一つは、一番素晴らしいことももう終わったという解釈です」
「その、どちらも?」
「どちらにせよ。あの人の人生は、もう終わっていると解釈していい。ということになります」
 
書類をながめていたエルスハイマーは、過去の情景に没入していたことに気づいて首を振った。あの時の件に似た問題だった。
切なく、やるせないが、素晴らしい時間だった。
生涯忘れられないような、印象的な人々と、出来事。
元帥府の彼らは元気にしているだろうか? 反乱に加担した主だった者たちは、ほぼ皆本国に留められている。あれから会わせてももらえないが、どうしていることだろう?
息子をつれて、ゆくえをくらましてしまったファーレンハイト夫人は元気だろうか? 今も妻と心配している。
エスルハイマーは、もう一度だけ、回想に身をゆだねることを自分に許した。
すばらしい総督府だった。
誰が知っているだろう? 今もロイエンタール総督府の変革の種が生きていると。
毎晩のように新領土の未来を語り合った。
あれもやろう、これもやろう。ロイエンタールの家にあつまって皆で熱く計画していた。実際にそれができる立場にあった。仕事が、まるで楽しかった。
ほとんど武官のあつまりだったので、エルスハイマー自身は滅多に参加しなかったが、
彼らの輝く瞳を覚えている。
たいていロイエンタールは笑って聞いているだけだったが、たまに問題点を指摘して軌道を修正していた。
だからか、反逆してからの彼らは悲壮で、そしてすばやかった。
語り合った中から、厄介なのを選んで無理やり通した。通常なら制定に半年はかかりそうな案件ばかり。エルスハイマーも、どさくさにまぎれて二、三個通した。
どれだけ時間がなかろうとも、あれらを全てなかったことには、誰もしたくなかった。
無理やりだったにもかかわらず、反乱後も半分は残っている。
しかし、そんな中、ふと今になって気づくことがあるのだ。
当時、ロイエンタールが総督として決済印を押した案件が今になって効いている。
それは、つまらない、地味なことが多かった。目立たないように、ささやかにはじめられた。
それらの種が枯れもせず、今、少しずつ花が咲こうとしている。実を結ぶのは、まだ時間がかかるだろうが、小さな、本当に小さな一つ一つ。
実際に新領土の実務に携わっている幾人かの心あるひとは気づいているかもしれない。
いつか、功績として、再評価されるときがくるだろうか?
ロイエンタールが黙々と押していた決済印。通したこと、後回しにしたこと。
今になって、その小さな一つ一つが見えてくるのだ。なぜ彼がこれを通したか、なぜ、後回しにしたか。その重みが。
ロイエンタールが書類の海の中に押し出した笹舟のように小さな星たちが、おのおの手を繋いで、今成果を結び始めていると。
あと五年。ロイエンタールが総督を続けていたら、今の新領土はどうなっていただろう?
まるで芸術のようだ。と、エルスハイマーは嘆息した。
当時はまるで適当に勘でやってるとしか思えない、淡々とした態度だったが、多分、違ったのだ。きっとあのヘテロクロミアは、千里眼どころか、千年先まで見えたに違いない。
・・・、ロイエンタールの有能ぶりは深く尊敬しているが、時折、まるで見当違いのことをしている気になる、なぜだ?
しかし、今日も元帥府の彼らは、黙々と仕事をこなしているのだろう。
輝かしい皇帝に仕えるためでなく、ロイエンタールへの評価を覆すためでもなく、勿論もう一度反逆するためでなく。
自分にとっての真実を、証明するために。

 

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