懐かしい出会いと、これからの思い出  そのいち
 
ふふふ、くすくすくすくすくすっ
 
その笑い声は耳ではなく、胸を駆け抜けていった。
置いていかれる! とふり返った瞬間、心が鳥のように羽ばたいて、その声を追いかけていった。
羽根の生えた心は、蝶のように光あふれる森を飛び、
甘くやわらかい音楽につつまれる・・・
「っ!?」
白昼夢はほんの半瞬だったのだろう。
我に返った少年は、
生まれて初めての感覚を与えた女性を前に、一人驚き、焦るばかりだった。
少年は苦々しくも自覚があった。
自分が、人間不信で、女嫌いで、ちょっぴりマザコンだと。
ただ、少年が知らなかったことが一つある。
彼、フェリックス・ミッターマイヤーは、老成も達観もしていない、若造だったのだ。
 
 
「エマイユ・フォン・ファーレンハイト・・・、って、誰だ?」
ある日届いた、一通の封書。今の時代、招待状や特別なグリーディングカード以外の郵便はめずらしい。しかも自分宛だ。
そこには、自分に会いたいという内容が、丁寧に、押しつけがましくない文章ではっきりと書いてあった。
知らない、女。
深く眉を顰める。その二つのキイワードは、フェリックスにとって、鬼門でしかない。
たった15年しか経っていない人生が、それを証明していた。
ほぼ間違いなく死んだ実父、オスカー・フォン・ロイエンタールがらみだ。
そしてほぼ確実にろくでもない目にあう。
ていうか、今現在に至るまで、ろくでもない目にあいすぎた。
国務尚書の息子で、皇帝の親友。ただでさえやっかまれるためにあるような位置だ。
さらに反逆者の息子。までついてくれば、誰も彼も大喜びだろう。
「反逆者の息子の癖に」
国務尚書や皇帝に表立ってたてつくものなどいないが。どこにだって、聞こえるように陰口を叩く人間は山ほどいる。
だが、それよりフェリックスの気力と体力をさいなむのが、
「泣く女」だ。
亡父がらみの女というのは、ただ2つのパターンに別れる。
ヒステリックになじるか、切々と愛を秘めるか。
もう、幼いころから死ぬほど待ち伏せを受けた。未だに曲がり角で一瞬とまるほどだ。
なじって賠償をせまるにせよ、切々と秘めたはずの愛を打ち明けるにせよ、
女は皆、泣くのだ。
あと、父(養父)の思い出話もいい加減きつい。多分かなり美化されていると思う。
誰も、死んだ父親のことばかりで、フェリックスを見ない・・・。
フェリックスは逆らいもせず、その事実を受け入れていた。とうの昔に諦めた。
母(養母)の暖かい眼差しがなかったら、どうなっていただろう?
(父さんと、母さんの息子に生まれたかったよなぁ)
何度思っても現実はかわらない、詮無い思考を首を振って打ち切る。
そうして、また美しい手書きの文面に目を戻した。
だから、本来なら、この手の手紙など、一顧だにせず捨てるのだ。
なぜ、この一通がこれほど気になるんだろう?
ここ半年ほど「お客さん」がきていないせいか?
上品で優しげな文面が好感がもてる?
「しばらくそちらに行く用事があるので、もし都合が付けば会って話がしたい」
という言葉が信用できそうな気がする? なぜ?
封筒のセンスは悪くなかったし、何より、書かれている字に目を奪われたのは事実だ。
純粋に、字を、美しいと思ったのは初めてだった。
手本のように美しい・・・わけではない。
けれど、落ち着いて書かれていると窺える。
優雅で、まとまりがあって、そして、・・・不思議なことに、すがすがしさを感じる。
どんな人がこんな字を書くんだろう。
まだ見ぬ女性に興味を持った。知りたいと思った。
だから、多分。ほんの気まぐれ。
亡父の恋人だったとしても、いつものことだ。ぐらいの気持で、記されていたメールアドレスに許諾の返事を返した。
「あなたは、誰?」
 
「ファーレンハイト提督の親戚か?」
たいして期待もせずに端末でファーレンハイト元帥のプロフィールを呼び出してみる。
そして、軽く目を瞠った。
「提督って、結婚してたのか・・・」
彼女の名前はそこに載っていた。ファーレンハイトの妻として。
「でも、聞いた覚えが無い」
フェリックスと皇帝アレクは、ラインハルトの時代の武勇伝を聞くのが好きだった。嫌いな子供なんているわけがない。
ケスラーとマリーカの出会いなどなんど聞いたかしれない。
さすがにロイエンタールのプライベートは言葉少なだったが・・・。
三元帥の一人の結婚話を、一度も、きいたことがない?
「わざと・・・ってこと?」
じゃあ、このファーレンハイト夫人とは、一体何者なんだ?
 
 
「ハインリヒ兄さん」
独立して、家を出ている義兄だが、ちょくちょく母に夕食に呼び出される。
同じく聞いた覚えが無いと云ったアレクとも相談して、兄に聞いてみることにした。
両親の前でも優等生ヅラを崩さないフェリックスにも、安心して喋れる数少ない相手だ。
「なんだい、フェリックス」
嬉しそうに招く兄に、単刀直入に切り込んでみた。
「ファーレンハイト元帥の奥さんて、知ってる?」
兄の温和な表情が、見たことも無い青さで硬直する。
「えっ?」
「誰に聞いたんだ、エマイユさんのこと」
息が詰まるほど真剣な表情で、ハインリヒが詰め寄る。つかまれた両腕が痛い。
「いっ、や・・・、このあいだ、資料を見てたら・・・このひと知らないなって・・・」
「誰かに、うわさを聞いたんじゃ・・・ないんだね?」
一言ごとに、兄の瞳から緊張が退いていくのが見て取れた。
「うわさ?」
「・・・、いや、世の中には、無責任な噂が多すぎるからね」
「ファーレンハイト夫人の噂?」
「ああ、酷い噂だよ。誰もエマイユさんのことを知らないから、あんなことがいえるんだ」
「酷い噂・・・」
「真実のひとかけらもないような噂ばかりだよ。少なくとも、ロイエンタール元帥府の人は、誰も信じやしないだろうね」
ロイエンタール元帥府・・・ロイエンタールの幕僚の生き残りたちを、慣例的にそう呼んでいるのを聞く。彼らは一様に・・・この兄も含めて、一様に彼らの元帥府の主を語らなかった。
死後15年近く沈黙を守る資料室の中将を筆頭に。
彼らは、ロイエンタールの反逆の生き証人のはずなのに、弁護も、批難も無く。
ただ、目の前の仕事に誠実に、軍人を続けていた。
「・・・ファーレンハイト夫人と、ロイエンタール元帥府って、関係あるの?」
なんか、聞くからになさそうなんだけど。
「ああ、みんなエマイユさんにお世話になったんだよ。家庭的で、笑顔を絶やさない人だった。ご主人が亡くなったばかりだったのに」
「ファーレンハイト提督が亡くなったときって・・・」
勿論覚えている。回廊の戦いだ。皇帝ラインハルトの時代、女神と呼ばれた同盟軍最後の元帥の、最期の戦いの前哨戦。弔いのプレリュード。
確か、自分が生まれたころとほぼ同じ。実父がなくなったのが、この半年ほどあとだ。
嵐のように目まぐるしい時期だったに違いない。
「そんな時に何してたの?」
「ハイネセンで、短い間だったけれど、ロイエンタール提督と暮らしてらしたよ。同じ家で」
兄は真実を語らない。常に、できるだけできるだけ、ギリギリまで主観を削って事実のみを語ろうとする。真実を作ろうとしない。それゆえフェリックスは、兄の言葉を無条件で信頼する。ただし、理解を望む時は、自分の脳みそがフル回転だ。
「それって、つまり、普通に考えていいの・・・?」
「おれは・・・おれはね、心から、彼女に、もう一度会いたいと望んでいるよ」
答えになっていない答えにフェリックスはうんざりする。いつもこうだ。
兄は夢見る少年の瞳でにっこりと笑った。
「本当にすばらしい時間を過ごしたんだよ。エマイユさんには、いくら感謝しても足りないとも」
ただこの場合は、兄の語る事実から導き出される真実は、どうやらフラウ・ファーレンハイトが相当すばらしい人物である。で、間違いなさそうだ。
「ロイエンタール元帥が亡くなってから、消息不明なんだよ。お元気にしてらっしゃるかな」
 
一緒に暮らしていた。その事実に、引っ掛かりを覚えるのは、皮肉なことに、フェリックスが、誰よりも亡父の交際関係を熟知していたからだ。
いや、関係というか、遍歴なのだが、彼女たちの話からわかること。
彼女たちは、だれひとりとして、死んだ父親に愛されてはいなかった。
女性たちがどう感じていたかは知れないが、彼女たちの言葉からはそうとしか思えなかった。
あれほど大勢の女性と関係をもちながら、オスカー・フォン・ロイエンタールはその誰にも興味を持てなかったのだ。
だから、漁色家にしかなれなかったのかもしれない。
どれほどそばにいても、永遠に片思い。
そんな空しさに耐えられる女がいるか?
「哀しい、よな?」
その亡父が一緒に暮らしていた?
自分の実母は論外だ。記録を見る限り、実母は暮らしていた、というよりは、押しかけて居座っていただけだ。復讐のためとはいえ、その行動力には敬服する。知らない人だが。
彼女は、実母と同じく自分を愛しもしない男と暮らしても平気な女性だったのか?
それとも、彼女は、亡父に歓迎されていたのだろうか?
愛し、愛されていた?
このひとが見た亡父はどんな人だったんだろう?
彼女が愛した、オスカー・フォン・ロイエンタールは。

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