秋、光降る金木犀の庭で

 

「っぅ・・・・ン?」

木漏れ日の中で目を覚ませば、すぐそばに広がった黒い海、金の星。

一瞬の錯覚に驚いて身動げば、金の星々は黒い髪を流れこぼれ、さらさらと落ちていった。

「犀・・・?」

自分の胸に覆いかぶさるように眠る細い肩と、小さな寝息。

穏やかな寝顔を見れば、ロイエンタールの呼吸も深くなる。

重なっているところとは別に、どこか体の奥で、湧き出す泉のぬくもりが広がっていく。

結婚してから、息をすることが楽になった。生きることが、簡単になった。

それは、ロイエンタールの生において、星が舞うごとく不思議な事件だった。

あらためて、眠る妻の顔を見直せば、なぜか満たされた気持ちになる。

「セイ」

長い黒髪をすくって口付ければ、落ちた花びらの芳香が髪に移っている。

風が吹いて、また甘い香りが濃く通りぬけていった。

「確かに、・・・少し寒いか」

昼間の木陰とはいえ、いつの間にか風は冷たい。

不思議なことは続くもので、昔は感じなかった寒さを感じるようになった。これも己の身が温もったせいだろうか?

この妻は、眠る自分が寒くないよう掛け物を持ってきて、そのまま寝てしまったらしい。

満開の金木犀の下で、黒髪の金木犀の精と昼寝も、悪くないな。

ロイエンタールは、淡く、でも穏やかに、少しだけ目を細めた。

甘い香りの満ちる庭で、目を閉じて深く息を吐く。

なんとはなしに、わずらわしいあれこれが洗い流されていく心地だ。

ロイエンタール自身には相変わらず結婚したという自覚は薄く、けれど、眼の前の金木犀のような女性・・・同盟の元帥とわかっているのかもアヤシイが・・・を自分の元にとどめておける。それだけは深く自覚していた。

サクッ

ややいらだったように、芝を踏む音がした。

ああ、思い出した。ロイエンタールはようやく自分が目覚めた理由を思い出した。

眠り続ける妻を起こさないように注意しながら、体を起こし気配のしたほうに向ける。

「久しぶりだな」

 

「コイツに会いにきたのか?」

これでも辛抱強く待っていた男は、こめかみに手を当てて頭痛をこらえた。

「たしか、今日この時間に行くと伝えたはずなんですがね」

「・・・そうだったか?」

そうだよ! と、シェーンコップは真剣に突っ込みを押さえた。

「起こしたくはないが・・・」

呟いたロイエンタールの横顔に、シェーンコップは刹那、戦慄を覚えた。

「風邪をひくな」

苦笑して揺り起こした妻は、寝起きの顔で嬉しげに破顔した。

「おはようございます、あなた」

ロイエンタールがシェーンコップを差せば、

「・・・そうだっけ?」

(ああ、似たもの夫婦ってやつね!)

シェーンコップはしばしオーディンまでやってきた自分を呪った。

 

「っもーー、過保護なんだから、アッテンボローもキャゼルヌ先輩も」

「それだけあなたが心配をかける生き物なんですよ。お元気そうで一安心です」

やたら優美で重厚なコンサバトリー(温室のようなもの。主にロイエンタール夫妻の昼寝場所)で、夫妻とシェーンコップは本格的なハイ・ティーを楽しんでいた。これは主に、遠来のシェーンコップのためらしい。ボケた主人夫妻とは違って、勿論ロイエンタール家の執事は、今日の客人を覚えていた。

生まれて初めて飲むほど美味しい紅茶と、その設えに、ロイエンタール家の執事の苦労がしのばれる。自分たちが司令官を思うように、ここの執事も主人が大切に違いない。

もし、ここの主人が、自分たちの司令官が変わったように、その10分の1の変化でもあれば、決してこの同盟の元・元帥を家から追い出そうとは思わないはずだ。

「本当に、お元気そうでよかったですよ」

「ええ、とーーーってもよくしてもらってるのよ」

「見ればわかります」

見ただけで充分だった。目は透き通ってきらきらしているし、肌は張りがあって血色もよくツヤツヤしている。どれもイゼルローン時代とは比べ物にならない。古今東西、一番の美容液は恋だ。いかに捻くれたシェーンコップだとて、認めている。

若干、馬鹿ップルぶりに青筋は浮くが、本当にシェーンコップはほっとしていた。

なんだかんだ、彼女をロイエンタールに任せるのは、勿論不安だったのだ。

 

「それで、どうなんですか? 実際のところは」

「んもー、これが運命の相手ってやつなんじゃないかしら!? 美味しい紅茶は飲み放題だし、昼寝はし放題だし、体の相性はいいし、もう、云うことないわ!」

「・・・・・・・、亭主のウェイト、めちゃ軽くないですか?」

「馬鹿ねえ、紅茶も昼寝も、一緒に楽しめると思うからこそなのよ」

「それはそれは」

亭主が席を立ったスキに問うてみれば、元司令官は、自信満々に美しく笑んだ。

が、シェーンコップだとて理由がなければこんなことは聞かないのだ。

「では、何があなたの心にかかっているのですか?」

「・・・・・・・・・」

一瞬の変化に、気温が変わったかと思った。

彼女の目が細くなり、その瞳から色がぬける。

幸せの薄氷をわった、彼女自身の表情。うつろで、けれど、恋やつれのように美しい。

「風が吹くたびに気づくの。あの人が好きだって」

冥い笑みで、笑う。

「わたしは、金木犀の精じゃないわ。あの人が誤解しているのは知っているわ。樹が恋敵なんて、いやだわ」

同盟にいたころは、もっと水気がなかった黒髪がサラリと流れる。

「はじめは、咲く前はそれでもいいと思っていたの。傍にいられるだけで、しあわせだった。花の時期くらい、あげてもいいと思ってた。でも、誰も教えてくれなかった! あんなに綺麗なんて。記録映像で見た時は、もっと地味な花だったのに。こんなに甘いなんて、知らなかった。怖いの。恐くなったの」

彼女の瞳に涙が一筋きらめいた。

「わたしは、あんなに綺麗でも、甘くもない。なれない。でも、あの人の目にはどう映っているの? わたしを見て微笑むあの人が、とても恐くなったの。傍にいられるのは嬉しいわ。いつもいたいの。でも、あの瞳が恐くて逃げるんだけど、屋敷中どこへ逃げても、あの香りで満ちているの。遠ざかれば遠ざかるほど、風が吹くたびあの香りが追いかけてくるのよ。だから」

他人から見れば笑い事だが、彼女の肩は真剣に震えていた。

「あの樹が憎くてたまらないの。馬鹿みたいでしょう? 自分でも馬鹿だって思うの。あの立派な樹に、嫉妬してるの。樹相手に」

「つまり・・・」

シェーンコップは息を吐いた。どんなどーしょーもなくても、自分たちの大事な司令官だ。しかし、苦笑は洩れる。

「あなたは、しあわせなんですね?」

「ええ、そうなのよ。おかしいでしょう? 嫉妬に焦がれながら、屋敷じゅうあの香りから逃げながら、それでも馬鹿みたいにしあわせなの。嫉妬しているのもしあわせなの。あの人が好きなの。好きでたまらないの。好きな人。愛しくてたまらない人」

「やれやれ、わたしはあなたのノロケを聞きにきたわけじゃないんですがね?」

「ウソつき。惚気を聞きにきたくせに」

「ご存知でしたか」

肩をすくめるだけで答えたシェーンコップだ。

「みな、あなたが心配なんですよ。あなたはとても元気で幸せそうだったと伝えます」

「ありがとう、シェーンコップ。心配してきてくれて」

イゼルローン時代とは違う、優しい、落ち着いた微笑に、シェーンコップは、微苦笑を洩らすことしかできなかった。

 

が、

やっぱり自分らの司令官が心配だったので、奥方が席を立った間に、亭主に聞いてみた。

「ウチの元帥が、金木犀じゃないっていうのは、・・・・わかってるんだよな?」

ロイエンタールはトリスタンで会って以来、割とシェーンコップのことを気に入っていたので、わりとナチュラルに答える。

「ああ、わかってる」

「あ、ああ、そうだよな。なら、いいんだ。いいんだ・・・」

 

(なんでどいつもこいつも同じこというんだ? あいつが金木犀なのは自明の理だろうが・・・いっちゃダメなルールなのか? 云ったら金木犀に戻るのか? それは困る)

・・・・・・・・、この夫婦のすれ違いは、まだしばらく続く。

 

幸せな香りの中で、まだ暫くは、誤解した幸せのまま。

それでもいつか、秋の日に。

 

 

おまけ

Q.金木犀は夜のほうが香りが強いですが、夜は亭主から逃げないのですか?

A.夜は気にしてる余裕がないので、香りなんて気づきません。

・・・・・・・・、毎晩かよ・・・。


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