運命の糸を爪弾く夕べ

 

正直に云う。私はその日、とても疲れていた。

その日だけではない、神経すり減らす日々が続いており、疲れがピークに達していて、正直、色々なものがどーでもいー気になっていた。自分の生死の問題なんて、生笑いしかでてこない、びみょ〜なテンションだったのだ。

それでも、ソトヅラは維持していた。今日さえ終われば、ゆっくりベッドで眠れるはずなのだ。ここが最後の正念場? みたいなものだったのだ。

その美しいつややかな三弦の楽器は疲労と現実を軽やかに切り裂くように現れた。

現実離れしたその姿が、私の心にちょっとした空白状態を作り出す。

ああ、

「綺麗だな」

ゴン

綺麗な楽器で殴られた。

「おまえンだろうが!」

いったーー

「あ、あれ? ぐーてんもーげん?」

「夜会の最中に寝ぼけるとはいい度胸だな?」

「夜会の最中に敵国の元帥ぶん殴るとかどーなのよ?」

「知るか、馬鹿」

私、疲労のきわみに達した同盟元帥ヤン・ウェンリーの前に立っていたのは、不機嫌な顔をした帝国元帥オスカー・フォン・ロイエンタールだった。

その手に、私があずけた三味線を持って。

 

「弾け」

「はい?」

横柄に云われた一言に、私の返事が胡乱になったのは仕方あるまい。

「だから、弾け。弦は張り替えた」

「って、指が動きゃしないよ。何年さわってないと・・・」

「いいから弾けっていってるだろ」

二人の間をなまぬるーーい沈黙が流れる。

「自分が誰で、私が誰で、今はどこにいるかわかって云ってる?」

「俺は。帝国元帥で、おまえは敵国の元帥。今は和平調印の済んだ夜会だ。わかってるから弾け」

だめだ、あいかわらず正気で無茶をいう男だ。

横暴なのに、声は耳に優しく、身体にしみこむように心地よい。それは私が子どものころからこの男に惚れていたというのが少なくなく、会いたくなかったのは、それが過去形であることに自信がなかったからだ。

まあ、それは仕方ない。無駄とは思いつつも、抵抗はしてみた。

「あのねえ、今、すっごい疲れてるんだけど」

「俺だって疲れてる。もー待ちくたびれた」

「そりゃごもっとも」

今回の調印と調整に走り回っていたのが同盟だけとは思えない。

階級は同じでも、この男にはさらに仕事が山積みだったに違いないのだ。

「しかたない。弾いてあげるよ。何がいいんだい?」

「おまえの母親の得意だった曲全部」

「・・・」

これが正気なのが憎くてたまらない。

「弾けるかは・・・わからないよ?」

「いいから、弾け」

「まったく、しょうがないな・・・」

まわりの視線が痛かっただろうに、別に、そんなのは気にならなかった。

この男のまわりにいれば、気にしたものではなかったから、

とうの昔に諦めていた。

 

「うわ、おまえこんないい弦つかわなくても・・・」

「音が違う」

チャン、シャン、ビンビン、ベン

「調弦あってる?」

「・・・、俺に聞くなよ」

「おまえ、弾けないけど、私より耳はいいだろう?」

「・・・・・・、一番低い弦が違う気がする」

すべての弦楽器と同じ、三味線も調弦が必要だ。ビーーーンと音を鳴らし、少しずつ弦を調節して、音を合わせた。

「多分、あってる」

「ん」

 

チャン、シャラシャラ。チャチャチャン

星屑をまいたような音色がこぼれる。ヤン・ウェンリーの音だ。

綺麗だ。と思った。

本来は姿勢良く弾くものかもしれないが、ヤンの、首をかしげて、行儀わるく膝といっしょにかかえるように三味線をいだいて弾く姿が、好きだった。

ドテ、チレ、ドンテテテツトン、トチチレテンツントン、ジャン。

手遊びが次第に強く打つようになって、サワリの部分にきたと気づいたロイエンタールが、目を伏せて、音楽に身を任せる。今日までの疲れが、肩から音楽に解けていくようだった。息がしやすい。

思い出すよじゃ惚れよがうすい 思い出さずに忘れずに

不思議な調子回しの不思議な声。死んだカトリエーヌ小母が得意としたこの古い楽器による楽曲は、ほとんどが「都都逸」と呼ばれる、俗曲だ。三味線の腕も、謡いも、死んだカトリエーヌ小母のほうが上手かった。

「ホンっと下手になったな、おまえ」

「うるさいな、本当に長いことやってなかったんだよ」

けれどロイエンタールは、ヤンの声のほうが好きだった。カトリエーヌ小母の明るく悪戯な声と違う、すこし哀しげなやわらかい声。

雨だれのように身にしみる。

ドテテン、ドテテン、ドテチレトテテンツトン

「なあ、ロイ。おまえは母さんになんていわれたんだい?」

「ん?」

「どんな呪いと再会した?」

「別に。俺のはそうだろうと思ってたから、特に呪われたとは思わなかった」

「じゃあ、おまえは母さんのいいつけ守ったんだ?」

「ああ。いいアドバイスだった」

ひとりで差したるから傘なれば 片袖濡れよう筈がない

「おまえは?」

「私は、逃げたから。一番いやなものと再会したよ」

ジャン

ひと際強くバチを振るう。

おまえ死んでも寺へはやらぬ 焼いて粉にして酒で飲む

「会いたくなかった化け物とねえ」

 

(まったく、なんで都都逸は恋歌ばっかりなんだ)

都都逸は別名「情歌」とも呼ばれ、その大半が色恋を歌ったものである。

その恋歌をこのぬらりひょんに聞かせる虚しさに、思わず溜息が洩れた。

 

『オスカー、あなたが人の心を汲めなかったり、けれど人の思惑はズバズバ見抜いちゃうのは仕方がないわ。オスカーはそういう風に生まれたんだから』

冷たい。子どもらしくない。もっと優しくなければダメだ。鬼子。

常々そういわれてきたロイエンタールに、そういってくれる人はいなかった。

『大丈夫。そういうのは、経験でカバーできるものだから。たくさんの人と触れ合って、たくさん経験しなさい。だんだんと受け答えができるようになるから』

そうか、経験でどうにかなるのか。ロイエンタールはうまれてはじめて自分の性質にホッとした。

『それとね、たくさん恋愛しなさい。失敗してもいいの。経験が増えれば、それがあなたの強みになるわ。それを生かせるほどあなたは賢いんだもの』

『ウェンリー喜ぶ?』

『喜ばないかもしれないわ。けどね、そうでないとウェンリーを幸せにするのは難しいわ。あの子はあなたほど賢くないの』

『ウェンリーは賢いと思うぞ?』

『頭はいいわ。けれど使いようが悪いのよ。あの子の賢さは中途半端なの。不幸を呼ぶだけだわ』

『・・・・・・・』

『親として悲しいけれど、あの子はこの先心を開かないわ。心を開かないものは、なにも手に入れることはできないのよ・・・』

『俺や、小母や小父には心を開くのに?』

『ええ。それが悪い癖ね。だから、あの子にはあなたしか手にはいらないの』

『・・・・・難しくてわからない』

『わからなくていいわ。いつか、運命と再会する日のために、覚えるだけ覚えておいて』

『覚えるだけなら・・・』

『あと、どーしよーもなかったら、ウェンリーに三味線弾かせなさい。私が教えた曲は、みんなどれも恋歌ばかりだから、いいムードになってウェンリーなんてめろめろよ。パツイチよ』

『覚えとく』

 

(けど、小母上、ぜんっぜん「パツイチ」じゃないんだけど)

『大丈夫。ウェンリーが喜ばなくたって、あなたたちの絆はそんなにもろくはないわ』

(覚えてるよ、小母上。ボチボチやってくさ)

 

チャンチャラリン チャラ チャチャチャン チャン

 

『ウェンリー、あなたはオスカーをどんなものだと思うの?』

『んーーーと、龍。ワガママだし、どーしょーもないトコもあるけど、すごく綺麗だと思う。一頭の龍みたい』

『ふーーーん』

『なんでニヤニヤするのさ』

『ウェンリーはオスカーのこと、自分の道を行く、夢に生きる男で、すごくかっこいいと思ってるのね』

『そんなことない! どーしょーもないもん、アイツ!』

『んまーーv 自分が守ってあげなきゃとおもってるのね、ウェンリーったらかっわいーーv』

『思ってないってば!』

『オスカーは、とても綺麗で危うい子だものね、あなたが好きになっても仕方ないわ』

『そりゃ、好きだけど、構わないよ、あんなのと付き合ってたら、命がいくらあってもたりないよ!』

『いつまで云ってられるかしらねーーーv』

 

(あいにくだけど、母さん。そろそろ云ってられなくなってきたみたい)

あの母は、一体何を見ていたのか。本当に魔女なんじゃなかろーか。

思わず深い溜息が洩れた。

 

『いつかわかるわ、ウェンリー。運命と再会したときにね』

思い出すのは母の笑み。

『母さん、運命は信じないわ。人はね、自分の運命と呼べるものにいつかどこかで出会っていると思うの。その運命と再会するために、選択を繰り返すのだと思うのよ。そして再会したときに思うの。これは運命の出会いだってね』

『わかんないよ、ママン』

『いいのよ。いつかわかるわ。だからね、ウェンリー』

このとき母は、悪戯っぽく笑みを浮かべた。

『三味線の練習サボっちゃダメよ。苦しいとき、哀しいとき、嬉しいとき、いつでも三味線を手に取りなさい。真剣に語り掛けなさい。その心があなたの音に深みを与えてくれるから』

『だからどーなるの? 演奏家になれるの?』

『いいえ、もっと素晴らしいことがおこるのよ!』

大輪の花のような笑顔。

溢れる太陽の笑顔。

『いつかママンがパパにそうだったようにね』

 

(けど、これは、どーかんがえても、母さんのしかけた罠にはまったんだよね?)

愛しい男の寝顔を眺めながら、溜息をつくしかなかった。

(これから、苦労するんだろーなー)

まあ、いっか。と、三味線を爪弾きながら、いつしか笑っていた。

運命とは再会してしまったようだから。

恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす

「まあ、頑張ってみるよ、母さん」


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