幸福の価値
 
なぁ、人は俺を、栄光の階段を登っているとみるか?
人にはそう見えるのか?
俺は、ただ俺は、
ゆっくりと、破滅の井戸を沈んでいるだけだ。
なぁ、ミッターマイヤー。
遙かに見える青空と太陽に、どれほど焦がれようとも、
それ以上に、俺をつつむ絶望を愛している。
はかなく微笑む破滅の女神。
何事にも侵されない、俺の聖所。
 
ああ。愛してるんだ。
お前は笑うか?
なぁ、ミッターマイヤー・・・。
 
 
自分でも驚いたことに、初対面の彼女に感じたことは、・・・かすかな嫌悪だった。
「どうか、なさいましたか? ミッターマイヤー提督」
細い、少女のような声。上目ぎみに覗かれる瞳。
男に囲まれているのが怖いのだといいたげに、心細く重ねられた白い手。
ハイネセンから艦隊に合流してみれば、僚友たちが遠慮がちに彼女を取り巻いていた。
「いいえ、失礼しました。ヤン・ウェンリー元帥」
繊弱に笑みを浮かべた彼女に、慌てて応える。
イメージと違ったからといって、勝手に失望されていては、彼女もいい迷惑だ。
彼女は、想像よりも遙かに弱々しく、頼りなかった。
風にそよぎ、ただ男に護られるだけの、無力な女に見えた。
とても同盟全軍を率いて、帝国をむこうにまわした女性とは思えない。
そこまで考えて、やっと自分の先入観に気づく。
あまりに、ローエングラム公という太陽を見すぎたのかもしれない。
彼女の溢れ出る知略に誤解したのかもしれない。
かの金の獅子に互する女性は、また、かの獅子のごとく強く、輝かしいのだと。
なぜ?
簡単だ。
でなければ、彼女に敗北した自分が哀れだからだ。
直接干戈を交えることこそなかったが、この敗北感は何だ?
間違いなく、我々帝国軍は負けたのだ。目の前の彼女一人に!
なのに、なぜだ。
なぜ彼女は、ただ、男たちに翻弄されるまま、涙を流すことしかできない無力な女のように、気弱げにたたずんでいる?
何もかもを諦めた、陰鬱な瞳をして?
思わず握り締めていた拳に気づいたのか、不安げに彼女の瞬きが増える。
まるで蝶の羽ばたきのように可憐だ。
敬愛する上司が、彼女に一目で心奪われたのもよくわかる。
おびえる眼差しを、笑わせたいと。そして、泣かせたいと。
強烈にそう思わせるのだ。
恐ろしいほど庇護欲をそそる。
健康的で明るい、妻のような女性を好む自分でコレなのだ。
姉のように、静かな女性に弱いローエングラム公など、なすすべもなかろう。
彼女を前にして、自分が男だと意識しない男がいるものか。
それほどまでに、わかりやすいほどに、目の前の女性は「女」だった。
「あの、ミッターマイヤー提督・・・どうか、なさいまして?」
「あっ、すみません。元帥閣下」
まただ。不安にさせてしまっただろうか・・・と、自然に考えてしまった。
けれど、あのヤン・ウェンリーと個人的に話せる機会だ。
珍しさにとても聞けないようなことも平気で聞けてしまう。
「ローエングラム公に、求婚されたとか。お受けになるのですか?」
やや、彼女の表情が落ち着いたようだ。青白い笑みをうかべ、ひっそりと答える。
「いいえ。とても。賑やかな暮らしは向かないのです」
静かに首を振る。
「軍人も、とても向いてはおりませんでした。まして、閣下の奥様なんて」
「けれど、貴方ほどの軍功者はおられない」
「人は、私を、栄光の階段を登っているとみたかもしれません」
えっ?
「けれど、私には、その逆をゆっくりと下っているようでしたよ? そう、深い井戸にゆっくりと沈んでいくように」
 
俺は、いったい、どこでその話をきいた?
まるでヤン元帥とは縁のないところで、同じことばを聞いたのじゃなかったか?
 
「折れないでしょう? ウチの元帥は」
話しかけられて、言葉を失うほどのショックからにわかに立ち直る。
「はい?」
「これは失礼を、上級大将閣下。ウチの元帥の護衛でして」
精悍な男ぶりの同盟軍人から、淀みのない帝国語で話しかけれれる。
「あの方は、今にもポッキリ折れそうなのに、決まって最後のラインは譲らない。公私共に揺さぶりをかけたんですが、両方とも断られましたよ。最後の最後で、しなるんです。ああ見えて、芯は強靭な方なのか、未だにわかりかねます」
公私共に・・・とは、つまり、振られたということか?
「いっそへし折ってやりたいと、本国の停戦命令を無視してブリュンヒルトを攻撃するよう唆したんですがね。やんわりと拒否されました」
強硬じゃないだけに、逆に恐ろしいと。どうして、自分をそこまで投げ捨てられる?
「一方からの衝撃には強くとも、他方からの圧力には弱いというわけには?」
「けっこう本気で、あの手この手を仕掛けたんですがね」
「そう・・・なのか」
「見たくはありませんか?」
「なに?」
苦みばしった偉丈夫に、暗い影が落ちる。
「あのひとが折れるのはどんな時なんでしょうね」
そんなもの・・・見たいに決まっている。
 
視線の先では、敬愛する上司であり、実質帝国の最高権力者が、なおも一世一代のプロポーズを決行していた。
大人しく最後まで聞いていた彼女は、生気に乏しい笑みを浮かべ、小さくけれど明確に首を横に振る。
漏れ聞こえた言葉に耳を疑った。
「ローエングラム公の求婚を受けてしまっては、娘と、知らぬ存ぜぬで通すことはできなくなりますので」
どこか覚悟を決めたかのごとく、彼女はその単語を口にしていた。
「む、す、め?」
「わたくしの、子供です。父親に預けました。籍も入れておりません。けれど、私には、たまらなく愛しい娘です」
云われた公よりも、彼女の護衛としてやってきた部下たちのほうが愕然としていたのが印象的だった。
「なっ、なにいってるんですか、せんぱいっ!」
彼女のすぐそばにいた、若々しい顔をした艦隊指令のしるしをつけた男が叫ぶ。
その声が痛いのか、かすかに唇をゆがめる。
「先輩に子供なんているはずないじゃないですか!」
その言葉の必死さに横をみれば、さっきまで喋っていた男も顔から余裕を綺麗さっぱり消し去っている。
「一体何年の付き合いだと思ってるんです! 先輩一度も妊娠なんかしてないじゃないですか。知り合ってかれこれ15年は・・・」
何が・・・はじまったんだ?
嫌な予感が心臓を鷲掴みする。
「ヤン・・・元帥?」
問う眼差しのローエングラム公に、彼女はゆっくりと口を開いた。
「そろそろ20年近く前になります。士官学校に入る前の冬の寒い日に、女の子を出産しました」
彼女は現実ではないものを見つめ、優しく微笑む。
「一緒にいれたのは、三ヶ月ほどでした。彼女の父親に預けて別れました。それ以来、会ってもいません。消息もしりません。知りたいとも思いません」
錯覚かもしれない。けれど、刃のように、涙のように、悲しく冷たい声だった。
「ヤン・ウェンリーが母親だと聞かされて、嬉しい子供などいないでしょう。父親のほうも、そんなことは教えないはずです」
 
「なら、聞くな。見るな、考えるな」
 
ビクッと震えた彼女の肩。深遠を覗き込むような顔色で、静かにうつむく。
「思い出すな。忘れろ。何も感じるな」
「・・・」
眉間に皺を寄せて入口に立つ男に。
暗い青の瞳と、さらに暗い黒の瞳を持った男に。
どこか、視点の定まらないぼんやりした顔で、抑揚なく答える。
「お久しぶり、ですね。ロイエンタール」
「元気そう・・・とは、とても云えん顔色だな。ヤン」
彼女の身体が小刻みに震えているのが見えた。ここにいるのが一秒でも耐えられないと。
けれど、
「そうですか? あなたに再会できて、とても喜んでおりますのに」
「だとしたら、お前の「喜び」とやらは、よっぽど心臓に悪いぞ」
「そう・・・、かもしれませんね」
生気のない顔で、肯定する。
「ヤン・ウェンリー」
ロイエンタールの声には、生気のない彼女の魂を揺るがす波動があった。震えながら応える。
「はい」
「あの小娘は嫁にやった」
「・・・ほんとう、ですか?」
流石に彼女も、驚いたようだ。
「あの、小さな子が、結婚・・・」
「近況なんか教えてやらない。どんな娘に育ったかも。けれど一つ約束する。あれだけは、たとえ本人を殺しても権力者にはやらない。それでいいか?」
「あなたには、それができますもの」
「なら、この話はこれで終わりだ」
「はい」
無情にも話を切ったロイエンタールにも、彼女は大人しく首肯した。
「ヤン・・・」
「夢の、ようです」
彼女は、泣きながら微笑んでいた。
「あなたにはご理解いただけないのでしょうか? 私が最後にみた彼女は、小さくて、まだぐんにゃりしていて、怪我一つ、病気一つで簡単に死んでしまいそうな赤ん坊でした。その子が、大きくなって、ましてや結婚だなんて」
そういって微笑む彼女のほうが、夢のように美しかった。
「泣くなよ、顔が不細工になるぞ」
「すみません」
「だから、お前は嫌いなんだ。昔から」
「知っています」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
その言葉に何を思ったのか、ロイエンタールが声を改めた。
「・・・、幼なじみ殿。お前は、俺が生まれる前から、男だとわかったときから、俺のいいなずけだった」
「はい」
「愛せなくて、すまない」
「・・・はい」
「どうしても、俺は、お前が目の前にいる不安と苦痛に耐えられない」
「はい」
「馬鹿な話だが、子供の頃から、愛してきたことは本当だ。けれど、どうしても、行動として、愛することができない」
「充分です、ロイエンタール」
「俺は、お前からもらったものを、少しでも返せたか?」
「私は、あなたに、幸せにしていただきました。それは今も変わらない。いいえ、続いています」
はじめて、彼女の瞳が、ロイエンタールのしかめ顔に向き合う。
「あの子が産まれてきたときだったでしょうか? それとも、あの子の小さな手が私の指を掴んだときだったでしょうか? あの時の喜びは、今も胸に響いています。私があの子を生めたのは、すべてあなたのお陰だとわかっていますか?」
穏やかに、穏やかすぎるほどに微笑む。
「彼女を胸に抱いた喜びは、今も私の中で続いています。彼女に関わるすべてのことは、すべて、あなたから頂いたものです。あなたが私を、幸せにしてくださったんです」
それが、今にも宙に溶けそうなほど、儚い笑顔だとしても
「あなたがいなくて、どうしてあの時、「堕ろさない」と決断できたでしょう? 目まぐるしく階級がかわり、周りにおびえ、絶望の井戸を沈んでいく中、私は貴方にいただいた幸福につつまれておりました」
深々と頭を下げる。
 
「私は、同盟にもどります」
顔をあげた彼女は、もう、ヤン・ウェンリーでさえない様にみえた。
人間ですらない、喜怒哀楽の削げ落ちた笑み。
「ありがとうございました、ロイエンタール」
「ヤン」
ロイエンタールも、少し迷っていたようだが、薄く笑いを浮かべた。
「俺は、お前のために生きたいと思っていた。けれど、お前のそばで俺は生きられない。お前が呼吸することにすら耐えられない。生きているお前は愛せない。ただ一つだけ」
「・・・はい?」
「いつか、必ず、お前のために死んでやる」
「私も、あなたに謝罪しなくては」
「何をだ?」
「イゼルローンで、あなたを殺せなかったことを。ほんとうに、申し訳ありませんでした」
「気にするな。地獄で再会する日を楽しみにしている」
「地獄って、どんなところでしょうね?」
「さあな? 多分、夢とたいして違わんだろうさ」
 
彼女の声が、夢のように響く。
「では、また。夢で会いましょう」
 
それを、幸福と呼ぶのなら。

 

 
あーーん、間に合わなかった〜〜。
まあいいや、光画部時間で遅刻は前後2時間以内です。
元々、目標は「レオン・エウゼピオとマリア・ルイーサ」でした。
うん、ひょろっひょろで、腺病質で、脆弱なヤン提督が書きたかったわけだよ。
大体そのへんはオッケーでした。ただ、
レオン、もっとカッコイイよね。フフ。
多分、今から十年近く前に、ちぃこさんだったか、八尋さんだったか、もしかしたらRYOさんだったかもしれない・・誰かに同じリクエストをしたんですが、
結局、途中になってしまったので、自力で書きました。
 
初心に帰る意味で。これを終わらせることが出来たことは嬉しいです。
また、新たな一歩として・・・とりあえず、サイトの整理整頓がしたいです。(新年の抱負)
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