金木犀と月の道

 

 

特に理由はないのだが、そして、高級将官としてはハタ迷惑なことなのだが、オスカー・フォン・ロイエンタールは独りになることを好む男だった。

 せめて随行でも付けてくれればよいのだが、一人でフラリと歩いて帰ってしまうときがたびたびあった。

 愛らしく儚げな(・・・と部下には見える)奥方が待つ屋敷までさっさと安全に帰ればいいに。と思われながら、ロイエンタールは今日もランドカーで五分の距離を三十分以上かけて歩いて帰るのだった。

 

 上官大好きな部下達に苦虫噛み潰されまくってるのをよそに、ロイエンタールは昼間の激務はどこかへ置き去りにしたように、実に気楽な足どりで月が明るく、他に歩くものなどない夜道を部下がやかましいので、地味なグレイの外套を翻してゆく。

 甘い夜風は彼の妻そのものである(とロイエンタールが信ずる)夜に強く香る花の香り。

 帰り道は満月を背にしているので、足元に自分の影が移る。ロイエンタールは猫のように機嫌よく目を細めた。

 空を見上げれば、夜は遙か高く、広く、澄んで、まるでこの世に己一人なのではと錯覚するほどに穏やかだった。己一人の宇宙をロイエンタールは心地よいと感ずる。元々そう感じる人間だったし、今もそれは変わらない。

 妻を煩わしく思うからではない。

 金の星のような花の香りが「好き」、ゆえに夜歩いてそこかしこに生えているこの金木犀の香りを追いかけて歩いて変えるのも「好き」、この冷たく乾いた夜風も「好き」。

 ロイエンタールは他者が見えれば赤面するほど艶美に微笑んだ。満足だ。

 彼の「好き」の全てが妻を起点とし、そして妻を終点としていた。

 この金の星々の輝く、冷たく冴えた宇宙そのものが妻のようであると思った。

 その夜、その宇宙に抱かれて心地よい。まったく悪くないものだ。

 感情があるというのは、楽しいものなんだな。

 

 己の感情に疎いロイエンタールにとって、これまで喜怒哀楽のすべては、まるでシャボン玉のように触れればすぐに割れてしまうようなものだった。せいぜい風を送って戯れるか、ものめずらしくプリズムをながめるしかできない、儚く頼りないものだったのだ。

 そんなふわふわしたものに重きを置く他者がロイエンタールには不思議なほどだった。

 ほぼ死滅しかけたロイエンタールの感情を揺り起こしたのが、彼の妻。

 何処をどう作用したのか、彼の「心」を動かし、それがそこにあるのだと本人に認めさせたのだ。

 斯くして、ロイエンタールの感情はシャボン玉レベルから紙風船レベルへ進化し、触れて遊べるものになっていた。喜怒哀楽未だに遊びレベルではあるが。

 そしてようやく感じ取れるようになった「好き」という感情は。すべて。

 

「そうか、これが「愛おしい」ということか・・・」

 振り向けば、冴えた満月。 これもまた・・・

 

 

 同じ月を、彼の妻もまたみていた。寒いのは苦手だというのに、庭に出した白いテーブルセットでぼんやりと。

 夫にそう評されたように、彼女は冷たく乾いた、そして穏やかな心を持った女性だった。

 本の紙の温度が彼女の常温、膝に乗せた本の重みが彼女とともにあるべき質量。

 人のぬくもりを知らぬ彼女は、熱い紅茶を飲みながら、小さく首をかしげる。

 今まで温度のない世界で生きてきた彼女は、家族という温度と質量に戸惑ってもいた。

 けれど、きっと、この胸の奥底から湧いてくる、淡い色をしたこの泉の名は・・・

「・・・?」

 塀の向こうで人の気配がした気がした。何かを迷うような靴音がかすかに?

「・・・、あなた?」

「みゃおぅ」

 

 

 多分、この気持ちが「愛おしい」というものなのだろう。悪くない気分だ。

 月は明るく、帰り道は白く見えた。

 甘く冷たい夜風を胸に満たすように一度目を閉じる。

 他の人間なら寒いというこの冷たい空気が「好き」。

 そんなことを考えていたら、ようよう、家の塀が見えてきた。甘い香りが一段と高まった気がする。

「・・・」

 歩いていたロイエンタールは、ふと、側の塀を見上げる。自分の屋敷の塀だ。

 壁の高さは2m半ほど。実はロイエンタールには結構簡単に蹴って飛び越えられる高さだ。

 そして自分の家なので、塀の上に防犯システムが通っていて、飛び越えるとそれが作動し、口うるさい執事にめっちゃ怒られることも知っていた。

 別に飛び越えていいんじゃないか?

 ジジイに怒られるだけだろ?

 はやく「自分の金木犀」に会いたくなったし。

 つらつら考えていると、塀の中の声は・・・。

「みゃおぅ」と一声で壁をこえた。

 

 

 きっとこの胸の奥で小さく、けれど滾々と湧く泉の名を、「幸せ」と呼ぶのだろう。

 

 

                                     了

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