ドルチェ・ヴィータ
「パスタが、食べたい」
大人しく山のような書類にサインしていたはずのヤンが、デスクにへばりついて洩らした一言。
キャゼルヌとアッテンボローはなすすべなく立ち尽くした。
と、同時に、物言わずまだ山のように残っている書類を片付けはじめた。
「あ〜、もう駄目だな」
「ひっさしぶりに出ましたよねぇ、キャゼルヌ先輩」
「定時30分前で助かった」
「この書類明日までに終わらなけりゃどうするんです?」
「徹夜で朝までに終わらさす」
甘いようで無常な断言に、ユリアンとフレデリカは首をかしげる。今日残業しなければ地獄をみることはヤンだって承知している。
「無理だ、無理無理。切れたから。エンプティだ」
「いや、先輩。随分もちましたよ。ユリアンひきとる前ですから。そろそろ5年です」
「マ・ジ・で・か? よく頑張ったなヤン。どうにもしてやれないけどな」
「パスタ、食べたいよぅ」
「俺だって食いたいですよ! 食えるもんなら」
「あ、あの。よろしければ僕、夕食にスパゲッティ作りますよ?」
「あーー、ユリアン悪いけど、今日ヤン先輩このまま寝かしてくれない?」
「「他の」パスタどころか、どんなメシ食わしても今日は文句ゆーだけだからな」
ほえほえほえ? ユリアンとフレデリカは、はてなマークを3つづつ飛ばした。
「あ〜〜、食べたいよなぁヤン。こってり油が絡まってる割には爽やかなソース」
「上にのってる若鶏のから揚げにはレモンを絞らないと」
「ハーブの香りも食欲をそそるよなぁ」
「勿論、前菜には生ハムのサラダに自家製ドレッシングですよね」
「あうあうあう〜〜〜」
いかにも切ない声で(←情けない声で)めそめそするヤンに、キャゼルヌとアッテンボローは両脇からなぐさめる。いや、苛めてるようにも見えるが。
「勿論デザートも必要だな。何がいい? パンナコッタかベリータルトか? それともレアチーズか?」
「俺はやっぱりガトーショコラですね。ミントと生クリームがのってる奴」
「あーー、旨いよなぁアレは」
「・・・ミルクレープ」
「「あああー」」
ボソリと呟いたヤンに、二人が頭をかかえる。
「俺たちまで食いたくなっただろうがっ!」
「俺だって食わして差し上げたいですよ、先輩!!」
「「ここがイゼルローンじゃなかったらなぁ」」
期せずしてアッテンボローとキャゼルヌの声がハモった。
「イゼルローンなんて地獄だ。監獄だ。牢獄だ! シャボン玉みたいにポンとはじけちまえばいいのにっ」
「あ〜〜ヤン、黙っといてやるから、他所じゃあいうなよソレ」
「泣きたいのはヤン先輩だけじゃないですよ! あーーロイエンタール先輩っ! 俺らを捨ててどこへ〜〜」
「フェザーンだなぁ」
泣き崩れるアッテンボローの頭も撫でなきゃならなくなったキャゼルヌは忙しい。
「そうっスよ! いくらハイネセン戻ってきたからって俺らのイゼルローン行きと同時なら意味ないじゃないですかーーーー!」
「うえぇーーん、パスターー」
「パスターー」
(馬鹿が二匹・・・どうしようか)
ここで迂闊に、自分だけイゼルローンに来るのが遅かったので、赴任前にパスタが食えたなどと暴露すればどうなるか。・・・たまったモンではない。
「あの、キャゼルヌ中将。奥様から」
フレデリカが遠慮がちに声をかけたのはそんな時だ。
「女房から? 就業時間中に珍しいな・・・?」
ヴィジホンを受けとろうとしたら、フレデリカが首を振る。
「いえ、もう切られたんです。「ヤン提督のパスタがいらっしゃいました」と一言だけ」
「げっ!」
「マジでか!?」
一人ヤンだけが夢見る乙女のようにうっとりと目を輝かせる。
「ほんと・・に?」
ふんわりと笑ったのが嘘のように、次の瞬間キャゼルヌに食って掛かった。鬼神も斯くやの形相であった。
「キャゼルヌ先輩っ! 具合が悪いんです、頭が痛いんです! 動悸が胸焼けで、ストレス性の腰痛がムカムカするんですっ!!」
ダンっ
「だから、早退させてください」
「あまりにも図々しい仮病だな」
「仮病だろうが化粧だろうが、とにかくさっさと帰らせてくださいっ」
いくらキャゼルヌでも無茶だと思ったが、残念ながら、これは天災の一種で、小さき人の子にどうこうできる事態ではなかった。
「あーー、ヤン今回だけだぞ。二度はないからな」
の、今回の「こ」まで口にした時点で、「わかってます!」と叫んだヤンは弾丸のようにとびだして行ってしまった。
「ユリアン悪い! あいつが何かしでかさんように追ってくれ。俺のフラットだ!」
「はっ、はい!」
ぴゅうぅ〜
ユリアンも慌てて駆け出していくと、妙に浮ついた虚脱した空気だけが残った。
「あの人、マジできたんですか」
「しかもこのタイミングでか? エスパーかなんかかあいつは」
「さすがロイエンタール先輩。やるときゃやる男だ」
キャゼルヌとアッテンボローが呆然としていると、陸戦から追加の書類を持ってきたシェーンコップが後ろを振り向きながら首をひねる。
「なんか今妖怪のような速度で走っていったの、ウチの司令官によく似てたんですが、なんですかねアレは?」
「あーー、シェーンコップ中将。それにグリーンヒル女史も。今日の夕食は一緒にいかがかね? おいしいパスタをご馳走しよう」
パスタの味は保障する。問題はそこじゃない。そこじゃないんだ!
「何しに来たんだ、あの男は」
「そりゃ、ヤン先輩にパスタつくりに来たんでしょう」
「だろうな、あの馬鹿たれっ!」
「なんか、今、罵倒された気がする」
↑エスパーかなんか。
「どうしたの? ロイおじちゃま」
「しかも、なんか、キャゼルヌの声だったような」
「ロイおじちゃま〜ぁ」
可愛らしいエプロンを身に着けたシャルロットが抗議する。
「ああ、悪かったなフィリス。クレープが作れるのか?」
「特訓したんだから! 上手なのよっ!」
「なら、クレープを焼いてくれ。12枚焼いたらそれを冷蔵庫に入れて、クリームを泡立てる。出来るかフィリス?」
「らっくしょうです!」
「上等だ。それじゃあフィリスをミルクレープ隊長に任命するか」
「わーい!」
「シャルロット。あんまりロイエンタールさんのお邪魔しちゃ駄目よ」
「邪魔じゃないのーー。私はフィリス隊長なのです!」
ふんふふんふ〜〜〜んとシャルロットはご機嫌でざっくざっくとクレープ生地を混ぜる。
「はやくヤンおじちゃまが帰ってくるといいね。はやく美味しいもの食べさせてあげたいねっ!」
「そうだな、フィリス」
台所はロイエンタールが占領しているので、シャルロットはリビングでクレープを作る。キッチンに向かって云ったらロイエンタールの返事が返ってきた。
どうやら道具をそろえているところらしい。キャゼルヌ家のキッチンをロイエンタールが借りるのはいつものことだが、ロイエンタールはイゼルローンに来るのははじめてだ。
カチっと音がしてホットプレートが温まった。
この頃フィリスは一人でクレープが作れるのである。はじめはオルタンスがずっとそばにいたが、何度か火傷や失敗を繰り返し、このごろ一人でホットプレートを使わせてくれるようになった。
はじめてロイエンタールの料理を食べたときから、シャルロットは彼のパスタとドルチェの大ファンだ。パスタはまだ無理だが、ドルチェはなんとか作りたい。
「フィリス、ドルチェとは「甘い」という意味だ。甘く、美味しくなれと思って作れば成功する」
「了解です、司令官閣下!」
自分の出来うる限り、うすーく、ひらべったーく、クレープを作っていく。ロイエンタールのアドバイスで自信がついた。
なんといっても、ロイおじちゃまといっしょにヤンおじちゃまの料理を作るのだ。特別おいしくしなくては!
とシャルロットが張り切っていたら、玄関からバタバタと音がして、「ヤンおじちゃま」がリビングに飛び込んできた。
「あああああ、シャルロット! オスカーが来てるって!!」
「ええええ、はやい!はやすぎよヤンおじちゃま! 連絡したのさっきなのに!」
「いくらなんでも早すぎないか? まだ仕事中だろう」
「おすっかーーーぁ!」
キッチンから顔を出したロイエンタールにヤンがぶわさぁーっと、飛びついた。
「うわーーい、熱烈ぅ〜」
シャルロットは慌てて顔を隠しながらも、しっかりと目は覗いていた。当たり前です!
「会いたかったよぉう! 愛してる愛してる愛してる! 本当に会いたかったんだよぉ」
「ハイハイ、パスタにな」
「否定はしないけど、それでも会いたかったよ! マジで愛してる!」
「ハイハイ、パスタをな」
「オスカー! お前私の愛を疑うのか!?」
「疑うもなにも、これ以上はっきりしたこともそうそうないぞ・・・」
いつも通りの問答に、シャルはこれを喧嘩だと認識しない。
いつの間にか、にこにこと椅子を引っ張ってきた。
「さぁヤンおじちゃまこのお椅子を使って。ここに置けば、ロイおじちゃまがお料理してるのが全部見えるわ」
「ああ、ありがとうシャルロット。君は本当にいい子だ」
「あっ、次のクレープ焼かなくちゃ! ヤンおじちゃま! パスタをパッてするところになったら呼んでね!」
「わかったよ、シャルロット」
というわけで、到着したユリアンが目撃したのは、片膝を立てながら椅子の上でリラックスしきった表情を浮かべ、ロイエンタールの手さばきを見物しているヤンの姿だった。
「ほええ〜、しあわせ〜」
ちなみに、道中ほぼ同時に出たはずのヤンには、影も追いつけなかった。
「えっと・・・、僕はどうすれば?」
「ヤン提督、あの方は?」
「ああ、ロイエンタールだよぉ」
「ウェンリー、お前ソレ、何の説明にもなってないぞ」
と、ヤンが夢の世界へ旅立っているので、ちっとも要領を得なかった。
「お前、ユリアン・・・だな? 自己紹介は少し待ってくれ」
そのとき、初めてユリアンはその人の両の目を正面から見た。左右色違いの瞳に目だけで微笑まれて心臓に直撃した。言葉も出ない。
「シャルぅ、パッてするところだよぉ〜」
「あっ、はぁーーーい!」
いそいで12枚目のクレープを一緒に冷蔵庫に入れ、「甘く、美味しくなぁれ」と真剣に呪文を唱える。
「ヤンおじちゃま! お膝に座ってもいい?」
「ここはシャルの特等席だよ、おいで」
ヤンの膝の上でロイエンタールの料理を見るのだけは、妹と争っても譲りたくない場所だ。しかし、なぜか妹はオルタンスのほうが好きらしい。なぜだ?
ロイエンタールの白い指が魔術のようにあざやかに、優雅に動いていく。
「綺麗だねえ、シャルロット。魔法みたいだねぇ」
こうやって刷り込まれたせいだけではあるまい。休みなく動くこの指が、夢のようにおいしいパスタを作るのだ。
「素敵ぃ、ロイおじちゃま」
無駄がなく、綺麗で、華麗だった。ヤンがうっとりするのは当たり前だ。
「ほら、シャル。パッてするよ」
わくわくわく
ロイエンタールがパスタの束をもって沸騰する鍋の前にたつ。
オルタンスがスパゲティーを茹でるときと同じなのだが、同時にまったく違うのだ。
それは・・・
ロイエンタールがサッと指を離すと、パスタが花のように広がる。その指の動きが音楽のようだ。官能的、という言葉をシャルはまだ知らなかったが、確かにうっとりと目を細めた。
パクっ
キャゼルヌは一口食べて思う。旨い。
旨いがしかし、目の前のしょっぱい光景はどうすればいいだろう?
一瞬見てしまったことを後悔したが、そんな暇もなく、両隣からもの言いたげな・・・いや、実際言ってきた。
「あの、キャゼルヌ中将、ヤン提督に恋人がいるとは寡聞にして聞いたことがなかったのですが」
「・・・、だろうな」
シェーンコップとフレデリカ。ユリアンまで微妙な顔をしている。
ただし、やっぱりキャゼルヌ家のご婦人方はいつものことなので気にしていない。
「なぁ、アッテンボロー。確認するが、これってどう見てもいちゃついてるようにしか見えないよな?」
「世間一般の基準に照らすと、こういうのはいちゃいちゃしてるというんです」
アッテンボローも慣れているはずだが、軽く目が据わっている。
なお、その二人・・・つまりロイエンタールとヤンは、傍目も気にせず「顔にソースとんでるぞ」「えー、とってー」とか、お約束のアレをやっている。今日のメニューがパスタでなければ「はい、あーーん」とかやってる。じっさい過去にやってた。
「それを踏まえた上で」
だがしかし。
「付き合ってないんだとよ」
そんな馬鹿な!
ユリアンとフレデリカとシェーンコップの不満はよくわかる。
自分たちだってはじめてきいた時はなんじゃそら。と思った。思った!
フレデリカが遠慮がちに口を開く。
「あの〜、これで付き合ってないとおっしゃるなら、世の中に馬鹿ップルなんて存在しないことになってしまいますが・・・」
「アンタもはっきり云うね、グリーンヒル中尉」
100人に聞いたら100人目が物言えぬ赤子でない限り、100人とも「馬鹿ップル」だと答えるだろう。
「愛してるよぉ、ちょう愛してる〜」と一口ごとにヤンが愛を語っている。ロイエンタールは苦笑しながらも、そんなヤンの世話を焼いていた。
「俺だって本人たちの口から聞くまでは、恋人だと思ってたんだよっ」
いっそ逆切れしようかとキャゼルヌは思った。
「ったく詐欺ですよ詐欺――。入学した時からロイエンタール先輩はヤン先輩と付き合ってると思ってたのに! フリーなら俺と結婚してくださいよロイエンタール先輩」
「あっ! アッテンおにいちゃまズルイ! ロイおじちゃまにはシャルが大きくなってからプロポーズしようと思ってたのにっ!」
「こら、シャルロット。椅子の上に立つなんてお行儀悪い」
オルタンスの注意もおかしい。
「はっはっは、モテモテだねぇオスカー」
ヤンは笑み崩れたまま、パスタを食べ、「極楽極楽」とかゆってる。近いな、極楽!
「えーー〜、ロイエンタール先輩ぃ〜、俺んとこ嫁にきてくださいよ。ちょう幸せにしますってぇ〜」
「パスタ目当てでなけりゃ、承知してやってもいい熱意だな。アッテンボロー」
「ええっ! そーなんですか!? だったら俺、これから先輩のことマジで愛しますよ! 死ぬまで惚れますって、今から!」
「お前のその根拠のない自信はどこからくるんだ?」
「自信さえあれば根拠なんていりません!」
「いっそ清々しいな。65点」
「えええ! せんぱいそれって合格点何点からですかっ!!」
「85点」
「チッ惜しい。あと20ポイント」
「まて、誰がポイント制だと云った」
「えーー、ロイおじちゃま、シャルの奥さんになってよ〜〜、シャルの方がアッテンお兄ちゃんより若くてピチピチなのに。大事にするからぁ〜」
「お前もなかなか熱心だなフィリス。さて、どうすればいいと思うウェンリー?」
「えーー、二人ともオスカーが大好きなら、シャルとアッテンボローが結婚すればいいんじゃない?」
「おお、いい結論だ。頑張れよお前ら」
「えええーーー、シャル、ロイおじちゃまとヤンおじちゃまをお嫁さんにするのが夢なのに〜」
なかなか大それた野望である、シャルロット。
「てか、シラフですよね? ロイエンタール先輩」
この腐った言動が全部正気なところが恐ろしいロイエンタールだった。
「と、いうわけで紹介が遅れたが、これが、ヤンの幼なじみで、士官学校主席から実業家になりやがったオスカー・フォン・ロイエンタールだ。亡命貴族じゃなく、祖先はイオン・ファゼカス号に乗った由緒ある家系だそうだぞ」
「よろしく」
食うだけ食って、至福のひと時を過ごしたヤンを膝に寝かせ、ロイエンタールがのんびりと挨拶する。
「金も実力もある美丈夫のくせに、料理の腕しか認められないかわいそうな奴だ」
「余計なおせわだキャゼルヌ」
「あくまでヤンの恋人ではないらしい。さっさと結婚しろお前ら!」
「だからイヤだといっている。ウェンリーと結婚して俺になんのメリットがある?」
「シャルロットとアッテンボローもメリットないだろう!」
「アッテンボローは見てて面白い。フィリスは面白い上に将来性がある。けど、ウェンリーは、世話をやくだけだろ?」
「片道半月もかけて一日世話焼きにきたくせにっ!!」
「しばらく会ってないから、顔見に来ただけだろ!」
「じゅーぶんアホだ!」
怒鳴り声で目が覚めたのか、ヤンが唐突に跳ね起きた。
「えっ! 誰と結婚しても、私にパスタ作ってくれるならオールオッケーだよ!?」
「「・・・・・・・」」
予断ではあるが、山のような書類は、奇跡のヤンが奇跡を起こしたので、翌日の定時にすべて片付いたとさ。
めでたしめでたし。