愛情は降る星のごとく
 
 
「愛している。子供の時から、ずっと・・・・。お前だけだ、お前以外目をくれたこともなかった」
 
 
ヤン・ウェンリーは、絶えることなく話し掛けてくる相手に、一人一人穏やかに応えながらも、どこか落ちつかなげに、会話の合間にも視線を彼方に飛ばしていた。
「申し訳ありません、陛下、少し・・・外の空気を吸ってきてもよろしいでしょうか?」
にこやかに微笑んで云われた台詞だったが、顔色が、少し辛そうだった。
ラインハルトが鷹揚に受諾すると足早に庭のほうに去っていった。
その後姿をロイエンタールが追う。
「ロイエンタール?」
「一人で行かせるわけにもいかないだろう。俺が行く」
「なら、俺も・・・」
「ミッターマイヤー。ぞろぞろ人が消えてどうする?帝国の威信にも関わるぞ」
と、それ以上の言を許さずロイエンタールの姿も会場から消えた。
 
逃げるような速さで庭の木々の間を駆け抜けるヤンを、ロイエンタールが追う。
「待て」
といわれて待つはずも無い。
ロイエンタールは舌打ちして、ヤンの進行方向に回り込んだ。
先回りされて、ヤンが足をとめる。
ひたと見据える二色の瞳に怯んだかのようにその姿が震えた。
「逃げるのか?」
「逃げる、ですって?私は敗軍の将ですよ?外の空気を吸ったらまた会場に戻ります。ロイエンタール元帥」
パシっ
「い、痛い・・・」
痕がつきそうなほど強く手首を掴み、背筋が凍るような冷たい瞳で、ロイエンタールは同じ言葉を繰り返した。
「逃げるのか?」
再度繰り返したその言葉が起爆剤だった。
「ッつ、ああ!逃げるとも!誰が別れた男とにこやかに酒なんぞ呑みたいものか!!!」
がざがざざざ
茂みが不自然な音を立てた。
「ウェンリー?いま・・・」
そちらに注意が逸れた隙に、ヤンがロイエンタールの手を振り解いて逃げようとした。
しかし、元々ロイエンタールとヤンでは体力が違う。
「離せよ!会場に戻るんだから!」
体を捻ってまで離そうとしたが、その腕は小揺るぎもしない。
「もう、17年経った」
恐ろしいほどの静かな声でロイエンタールが言う。
「だからって、呑気に酒呑んで話したいほど、お前との思い出は穏やかなものじゃない!」
返すヤン・ウェンリーは半ば狂ったように叫ぶ。
「この17年、思い出しもしなかったものを!それを・・・いやだ、もういやだ!もう辛いのは嫌だ!私はまだ変われてないのに、変われなかったのに!それでも」
「それでも、俺を振ったのはお前だろう!」
言葉を遮った叫びに、ヤンはビクっと身を縮める。
茂みがふたたび不可解な音を立てたが、今回は二人とも気にしなかった。
慟哭と恫喝のないまぜになった叫びは、確かにヤンを止めた。
「そーだよ」
変わりに出てきたのは
「私とお前しかいなかった。お前がしたのでないのだから、私が振ったに決まっているだろう」
ただ滂沱の涙だった。
「私がお前と共にいるのが耐えられなくなって、お前に絶縁状を叩き付けた。そうだっただろう?」
震える手で顔を覆う。
腕は、もうさほど強くない力で掴まれていたが、ヤンは気付いた風も無く、もう、振りほどこうともしなかった。
「もういい加減、忘れてくれてもいいじゃないか・・・、オスカー」
お互い目を伏せて、相手を見ようともしない。
「馬鹿だな。忘れて欲しいのだったら、一言いっていればよかったんだ。ただ一言で、俺はお前を忘れたのに」
「云えなかったんだ・・・。どうしても」
「『お前なんか嫌いだ』と」
「云えていたら!・・・・・・、云えていたら、今ごろはもっと救われていたさ。私も・・・お前も・・・・・」
「救われている俺が俺でないのだとしたら、救いにはなんの意味も無い」
「赦してくれ。どのみち私には無理だったんだ・・・何もかも」
「「その結果、変わることも出来なかった」か?」
重なった声に、ヤンは痛く微笑んだ。
「もう、会場に戻るよ、放してくれ」
「・・・・・・・・・、このまま行く気か?」
少しだけ、ロイエンタールが手の力を強める。
「云ってくれ。俺に出来ることならば何だってする」
ヤンは顔をあげ、ロイエンタールを何も映さない瞳で眺めやった。そしてまた伏せた。
40年」
ぽそりと呟く。
40年たったら、そう、還暦を回って10年も経ったらいくら私たちでも総てを思い出に出来るはずだ。だから、また会おう。そして、うだうだ思い出話をしながら死ぬまで、いっしょにいないか?」
「わかった。40年だな」
あっさりとロイエンタールが頷いたことに、ヤンは苦笑する。
「そうだな、40年後の今日、何時もの場所に、何時もの時間でいいか?」
「ああ」
一拍置いてロイエンタールが口を開く。
「ウェンリー、俺は」
「オスカー」
今度はヤンがロイエンタールの言葉を遮った。
「なんだ?」
「お前の続く台詞が、17年前と同じものならば聞かない。それは、解かっている」
「では、云わないでおく」
「元気で」
「お前も。就寝前にも歯を磨けよ」
ロイエンタールの何気ない台詞に、ようやっとヤンは普通の笑みをこぼした。
「お前も、文句ばかり云わず、好き嫌いせずになんでも食べるんだよ」
ロイエンタールは、するりと、掴んでいた手を放した。
 
「おい、ロイエンタール、何処行くんだ?」
ビッテンフェルトが声をかけた。
「帰る。もういいだろう」
「相変わらず気まぐれだな。ところでミッターマイヤーをみなかったか?」
「さぁ?・・・いないのか?」
「ああ。カイザーもさっきから見ない」
「・・・・・・・・、他に誰がいない?」
「ヤン・ウェンリーと・・・、その随行者かな?めぐり合わせが悪いだけかもしれんが、何しろ広いしな」
「ああ、多分そうだろうな。どこかその辺でまた会えるだろう」
「しかし、もう帰るのか?お前」
「ビッテンフェルト」
と、ロイエンタールは無常にも云った。
「邪魔するな」
 
ロイエンタールは、このあと誰とすれ違いもせずに家に帰った。
ミッターマイヤーが出くわさなかったのは幸運としか言いようが無かっただろう。
敷地から踏み出すとき、ロイエンタールが呟いた絶望的なカウントダウンを聞く事もなかったのだから。
「後、39年と364日と半日」
 
それから、何があったというわけでもなかった。
ロイエンタールは相変わらずの漁色家ぶりで、ヤンは皇帝の召喚を固辞し続けた。
ただ、ロイエンタールの偏食が治った事と、ヤンがやたらと熱心に歯磨きをするようになったことは、誰もなにも言わなかった。何も、訊かなかった。
 
そして40年後。
ロイエンタールは約束の場所へと歩を進めていた。
その年とは思えないほど頑健な足取りである。
しかし、本人にしてみれば老いを実感するほどには。
咳き込むことが多くなり、やたら疲れやすくなったし、始終目がかすむ。
それすらも、ロイエンタールは有体に受け止めただけだった。
ただ、年をとったと。
加齢に従う体力の衰えは、生物として当然のことである。
時が流れすぎたのだ。
同盟軍の最後の元帥が風邪をこじらせて死んだことだとて、もう11年も前だ。
別にぼけたわけではない。
それでもロイエンタールは目的の場所に向けて歩いていた。
 
ガサ
 
最初にロイエンタールがその場所に立ってから、既に70年近くたっていたが、それでもそこはそことしてあった。
ささやかな池のほとり。
「ロイエンタール元帥」
背後から声がした。
振り向くと、そこには中年から老年に指しかかろうとしている壮年の男がいた。
勿論死せる待ち人ではない。
「ユリアン・ミンツか。卿も老けたな」
「ヤン・ウェンリーの、遺言を持ってまいりました」
「あれが、ここのことを喋ったのか?」
「・・・、いえ、失礼とは思いましたが、尾行させていただきました。貴方を今日つけていれば此処にこられると思って」
「もしや、40年前のあれとの会話を聞いていたか?」
ユリアンはただ苦笑した。
「言い訳がましいですが、私だけではありませんでした。あまりにも驚いたので、お互いがお互いの口を押さえるのが精一杯でしたが。誰、とは申しますまい、今更ですから」
「ああ、その通りだな」
「今日、此処にくれば、ヤン提督の最期の言葉を貴方に伝えられると思いまして」
「いらん」
一瞬ユリアンは何を云われたかわからなかった。
「どうせ、独断なのだろう?あれは伝えろとは云わなかったはずだ」
「し、しかし!」
「聞く必要はない」
ロイエンタールは、もう一度小さな湖の湖面を眺めた。
「大体想像はつくが・・・。本人の口から聞けばいいことだ」
 
 


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