そしてキミに会いに行く 12月16日
「ふぅ」
一つ息を吐いて女は開店前の店のカウンターに腰を下ろし、白い花だけをふんだんに生けた花瓶を眺めやった。
元々彼女は切り花は好きではない。
観葉植物やプランターなら店にも、その上階にある住まいにもいくつか置いてあるが、彼女が切り花を飾るのは1年の内でも今日と、5月2日と6月1日だけだった。
普段とは違う、生花の青臭く甘い香りが店に満ちていた。
明日になればこの気前よく豪勢に買ってきた花々も生ゴミ再生機の中だろう。
勿体無いとは思わない。花たちのために生けているわけではなかったのだから。
女は、白い花の輪郭を指で辿りながら、十数年前の今日死んだ男を思い出していた。
決して愛していたわけではない、しかし今となっては本当に憎んでいたかも思い出せない男を。
「よく、あいつの声を背で聞いた」
既に己の名を冥界のリストに綴らせた男は、片足一本で現世に留まりながら吐息のような声を漏らした。
「え?」
腕に赤ん坊を抱いたまま苦労しながらハンカチを取り出していた女が首を傾げる。
「声が波になり、背中から体中に伝わっていくのが心地よかった」
最早意識して出している声ではないと判断して、女は無言で男の額の汗を拭う。
「今ではもう、昔の想いだが・・・」
男にはもうわずかな力もほとんどないのだろう。目を伏せたまま呟く。
「あいつと別れてから、あいつを失いたくなくて、何度も、繰り返しその思い出をなぞった。輪郭を、声を、俺の思いを・・・、全てを」
何を思ってそんなことを語るのか、女にはわかるべくも無かったが、男の声は、今このときだというのに淡々としていた。
「たとえ、過去に、思い出という枠に押し込めることになったとしても、そうしていればあいつを失うことなどないと思っていた。永遠にそうだと思っていた。あいつを喪うまでは」
相当疲れているのだろうに、男は続けた。
「今のおれの中には、何も、無い。あの日から、まるでおれの空洞に人の声が反響しておれを動かしているように、虚ろだった。今まで生きてきた全ての時をあわせたよりも長く感じていた」
それきり口をつぐんた男に、女は今まで感じたことの無い思いが急に膨れ上がってくるのを感じた。
この男に送る言葉が何かないかと。
この男を送る言葉が、何かないかと。
間違ってもこの男を愛したことはなかったし、好意を抱いたこともなく、憐れんでもいない・・・つもりだ。
それでも、何か云うべきことがあるのではないかと言う思いが急に湧きあがってきたのだ。
この男とどういう関係にあったかは知らないが、彼の人にイゼルローンであったことを話そうか?
それとも、この腕に抱いている子供に名前を貰ったことを云ってもいいのではないか?
どちらも男が喜ぶとは到底思えなかったが、それでも何か、と胸が詰まる。
「だぁ!」
ふいに腕の中で赤ん坊が暴れ出した。
普段からあまりむずがることの無い子供だったが、どうしたのだろう?
「だっだっ、きゃ!」
このごろよく笑うようになった子供はふくふくした腕をしきりに父親に伸ばそうとしている。
「どうしたの?」
首を傾げて男を見るが、失血で軽く気を失っているようにしか見えない。
「何か、見えるの?」
女が気付いたように、赤ん坊の焦点は微妙に男からずれていた。
「だーだぁ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・、そうね」
女はそんな子供に軽く微笑む。
「必要ないわよね、この男は今から「彼」の元へいくのだから」
男が唯一幸せになれる所へ、逝くのだから。
女は、自分ですら意識していないほどかすかな羨望をその一瞥に乗せ、男に背を向けて部屋から出て行った。
「ねぇ、あなた」
女は部屋に入れてくれた少年に、不思議な印象の表情で声をかける。
「この子を、抱いていてくれないかしら?ミッターマイヤー元帥がくるまで」
その神秘的とすら云っていい雰囲気に呑まれた少年は子供をやや危なっかしい手つきで受け取る。
「そう。お願いね」
少年に優しく微笑んでから、女は表情の無い表情で息子を見る。
「ぼうや、あなたはあなたの人生を行きなさい。わたしも、行くから」
そして、乳児の桜色のふっくらすべすべの頬を両手で柔らかく包んだ。
「元気で・・・」
そっとこめかみにキスを落とした。
まるでその言葉がわかったかのように、赤ん坊がにっこりと笑う。
もう一度だけ、女は別れ行く息子の髪を優しく撫でると、その光景に見惚れて呆然としていた少年に微笑む。
「この子を、お願いね」
そうして少年は、女がミッターマイヤーが来る間、の意味で言ったであろう言葉を、その後十数年実行し続けるのであった。
女、かつてエルフリーデ・フォン・コールラウシュと名乗っていた女は自分の中に男に対する嫌悪がなくなっていることに首を傾げる。肉親の仇ということはもう思い切っているにせよ、不愉快な男だったことは確かなのに。と。
女は、それが同じ人間を愛した者に対する親近感だということには気付いていない。
ただ、男は彼に愛され、己は愛されなかった。
それでも、確かに彼に対する想いは同じだったのだから。
そっと白い花弁の輪郭を辿るその指が、水仕事で少し荒れているのを見て、軽く微笑む。
女は、かつて自分が自慢にしていた美しい指よりも、今の自分が結構気に入っていた。
(それにしても・・・)
と女は思う。
息子は元気だろうか?
あの時は己が育てるよりもマシだろうと男の提案を受け入れたが、それはあの子供にとって果たして本当にいいことだったのだろうか?
じっと腕を見下ろしてため息をつく。
今でもはっきりと思い出せる子供の温度と重み。
生まれたばかりの頃は、自分がそんな重い、物量的にでさえ重いものを持てるのかと思っていた。
次第にその増える重みにも慣れ、ようやく可愛いと思えてきた時に手放した息子だった。
確かに今でもミッターマイヤー夫妻は帝国一有名なおしどり夫婦である。
しかし国務尚書の家にいる以上反逆者の息子と言う名前は付いて回るのではないか?
ひっそりと母子だけで暮らしていたほうがあるいは・・・?
しかし、女の思い切りのよさもなかなかだった。
過ぎたことはもう変えようが無いのである。
女は時計を見ると、表の札を「open」にする為に、席を立っていた。
勿論、来年の今日どころか、この次の次、6月1日にこの花瓶を出す時、他でもないその息子に白い花を買いに行かせている。などとは欠片も思わずに。
番外編です。ロイ命日のくせにメインはエルフリーデ、テーマは女の自立。←大嘘
てゆーか、六話書いてあるのになんでこっちのアップが先になるのかしら?ってカンジ。
てゆーか、ロイ命日です。たとえあと数分しか残っていなくても!
てゆーか、これ書いた性で「六月一日」とトリスタンのシリーズ別物になったっぽいですね。
でも、やはしロイヤンコンビはヴァルハラってイメージじゃないのよ。うん。
さて、マジで今日が終わってしまうので、このへんで。