眠らない街の憂鬱な住人たち



「まぁ、白家の御曹司様・・・」
「・・・っ」
酒場の女主人が思わずもらした一言に、店中の女の子が色めき立ったが、女主人の目配せで、みな本来の仕事を思い出す。
美時は軽くほっとして、カウンターに近寄った。

二時間ほど前のことになる。訓練の合間にローゼンリッターの一人がニヤニヤとからかう調子で「呑みに行こうぜ☆」と誘ったとき、一瞬美時がはっきりと顔をしかめたのを、シェーンコップはみた。普段クールぶって表情を隠す少年には珍しいことだ。
誘った男はそれを見て、ますます嬉しそうに誘う。初心な少年をからかうのは楽しいのだ、前隊長の性格をよく反映しているな、とシェーンコップは納得した。
なぜか棒読みで断る美時だったが、しつこい誘いに諦めたらしい。
「別に、俺つれてっても、あまり面白くないかもしれませんよ」
拗ねたように呟いた少年に、シェーンコップは首を傾げる。
視線を感じ、聞かれたと気づいた美時が困った顔になる。
ぴらぴらした衣裳のオネエチャンがいる酒場に行きたくないというよりは、
「俺、飲み屋街で育ったもんですから、あんまり、遊びに行くとか、楽しむとか思えなくて・・・」
青いのかふてぶてしいのか、ボンボンなのかすれているのか、イマイチわからない少年であるが、いや、そこがまったく青少年なのかもしれないが、なるほどこの件はわかった。女性が苦手なのではなく、まるで身内に会うようで気恥ずかしいという。
「あの、その店・・・ウチの母も行ったことありますか」
イゼルローン司令官とまったく同じ瞳でまっすぐに見上げられ、シェーンコップは一瞬まごつきながらも頷く。普段視線をそらしがちな少年なので、まっすぐ見られると、ちょっと驚くのだ。
今日元々隊員たちを誘ったのはシェーンコップだったが、「水月」というその店は酒もいいのが揃っている店で、たまにヤン司令官が利用していることは知っていた。
「なら、行ってみます」
美時は何か固い顔で、一人頷いていた。

元々美時は女性が苦手ではない。今現在銀河で唯一、色街と呼べる月下街で育ったのだ。
しかも、街中の妓女は美時を見れば小さいころから満面の笑顔で甘やかしてくれた。彼女らにとって柏の名を持つ美時は王子様だった。
一応美時も街の外の歓楽街がそんな場所ではないと知っていたから、どんな風に相対すればいいかわからなかった。
けれど、この人はわかった。水月の女主人。「身内」だ。
彼女は、ローゼンリッターと美時をみくらべて少し迷ったようだが、軽くあごを引くと、酒杯を用意して美時に笑顔で差し出した。
「ようこそ、旅の方。おつかれでしょう。柳の下でどうぞ」
美時はわずかに緊張したが、笑みを浮かべて杯をとった。
「ありがとう、ご親切に。あなたがたと私たちに、永の繁栄のあらんことを」
くいっと一息で飲み干すと、空になったことをしめすように、手首を返してグラスを下に向ける。
「柳に」
意味は知らないが、街の外でこの言葉とともに酒杯を出されたら、こう答えるものだと教えられた。ちゃんとできてよかった。美時はほっとした。
そして美時もまた迷ったが、連れのローゼンリッターには戻らず、カウンターに腰をおろす。
「申し訳ありません、柏様。つき合わせてしまいまして」
「いや、一族の古いつとめだから」
何気なく云ったつもりだが、少し気恥ずかしかった。それはヤン家の古い慣習だったからだ。ヤンを母と呼びながら柏を名乗る美時に、あえて云ってくれた心遣いが嬉しかった。
「同僚の方と離れられてよかったのですか?」
「う・・ん、多分良くないんだけど、返事できないし、あと、なんかやたらオネエサンたちの視線がキラキラしてて・・・」
「重ねて申し訳ありません。街の外の人間にとっては、あの街はおとぎの国。あなたは王子様ですから」
「俺、御曹司でも王子様でもないんだけど」
「外の人間に、そんなことは関係ありません。彼女たちはあなたを見るだけで嬉しいのですわ」
美時だってわかっている。彼女たちは自分に夢を投影させて幸せになっているのだ。薄々こうなるんじゃないかと思うから、美時はあまり来たくなかった。恥ずかしい!
だれも美時に近寄ってこないのは、女主人の教育がいいからだ。
美時は問うてみた。
「ねえ、あの街は夢の国かな?」
「外の人間はそう思っています。春を売るものが笑顔で暮らせる楽園だと」
「幸せに暮らせる?」
「幸せであることが、住人の義務です。お伽話の登場人物になれないものは、あの街にはいられませんから」
住人であることが誇りなのだ。あの街は夢の国たらんという意地と誇りで続いている。
笑みを浮かべて云う店主を美時はあらためて見直した。
「やっぱり、あなたは、街の出身なんだ」
「水月と呼んでください、美時様」
「古い伝承を知らなきゃ、柏家を白家とはよばないもの。あなた、そうとう詳しいよね?」
「たまたま機会があって覚えただけですから」
柏家は現当主・栄で226代を数える古い家だが、そう名乗り始めたのは故郷の谷をでて以来のここ数千年だ。谷には姓というものがなかったらしく、ただ本家とか、白の家とか呼ばれていたといわれている。
「それに、あれ、竜弦琴は街にしかない楽器だと思ったよ」
アルコーブに飾られた美しい楽器を示されて、水月はにっこりと笑った。
「ええ。私が街を出るときに、唯一持ち出したものです。けれど、外の男の方はあれが弾けないものですから飾ってあります。なにか、弾いてくださいますか?」
ちなみに、街では女性を口説く時のマストアイテムだ。妓女も、そうでない相手も。
美時もにこりと笑みを返して竜弦琴をとり、膝に乗せて座りなおした。
綺麗なオネエサンに頼まれて、引き受けないなんて月下の男ではない。
軽くならしてみると、手入れはきちんとされていた。
「何か、リクエストは?」
「なんでも」
云われて美時はすこし考える。が、少し悪戯ごごろをおこしてある曲をひきはじめた。口説くつもりでは選曲できない歌。
タ タ タンタンタン、タ タ タンタンタン、タタタン タンタン タタタン
「まぁ」
小気味良い調子で前奏をかき鳴らすと、水月には曲名がわかったようだ。軽く目を瞠った。
美時は、音感は普通だが、リズム感が人並み以上によかった。華やかな心躍る旋律がひろがっていく。
「なんて、・・・懐かしい」

かすかに哀調をおびて美時が歌い終えて顔をあげると、水月は目に涙を浮かべて微笑んでいた。
「ありがとうございます、美時様。素敵でしたわ」
「いやな曲じゃなかった?」
「いいえ、ええ、私も14だった時がありましたから」
その顔をみて、きっといい思い出というばかりではないのだと思ったが、美時はこう云うにとどめた。せいぜい王子様めいた笑顔で。
「なら、よかった」
「いいえ、本当にお願いしてよかった。女神様の祝福が、あなたにありますように」
「あなたにも」

「っていう話がまことしやかに噂されてましてね、お兄ちゃん」
双子の兄の前に、真雪が立ちはだかった。
「え? だいたいのところ事実だけど・・・なんで、怖いの? 雪ちゃん。同郷のお姐さんに故郷の歌を歌っただけなんだけど」
逃げ腰の美時に、真雪がグイと迫った。
「水月の女主を歌で泣かすなんて、流石柏の王子様だって株があがりまくりだよ!」
意外にも街の外の柏家信仰は女性よりも男性に根強く、ホストや水商売のお哥さんたちは、真雪を見ると生き神様よろしく拝んだり花をささげたりするのである。兄と違って割り切っている真雪は、これも柏の名前で育った者の勤めとして、お地蔵さんになったつもりで気前良く拝まれてあげていた。自然親しくなって、噂は耳に入るのである。
「えっと、なんで怒られてるかわかんないんだけど」
「別に怒ってないよ! けど、帰ったらおねえちゃんになんて云うつもりなの!」
この「おねえちゃん」は藤波のことではない。幼い双子の姉代わりで、
「そ、そのまま云うけど? だって浮気したわけじゃないし、てか、静香が妬くわけないし・・・」
一応美時の恋人である。中身と見た目が「呼吸する天使」と評判の、いつもにこにこと笑顔を崩さない七歳年上の美女だった。
「え、いや、そうじゃなくて、だって多分、もしかして・・・って、あれ? お兄ちゃん気づいてない?」
雪はへ〜〜んな顔になると、顔に疑問を浮かべる兄を取り残し、母のところへ駆けていった。

「ねえ、ママぁ〜〜〜」
「うん、あれはぜんっぜん気づいてないね」
組んだ手にあごを乗せながら、ヤン・ウェンリーはにこやかに断言する。
「なんでお兄ちゃん変だと思わないの? 妓女やってて10代で街を出てく方法なんて雪、一つしかしらないよ!?」
「うん、そう。それしかないよ。身請けされる以外でね。けど、あんだけ気づいてないと、逆に面白いナァ」
「ま、ママ・・・」
露骨に面白がる母親に、真雪が若干引く。
「美時、絶対街に帰ってそのまま云うよ。静香の反応が見ものだ」
「おねえちゃん可哀想だよ」
「いや、静香はそんなんで動揺するような育て方はされてないよ」
正確には、静香に云われた美時の反応がみものだ。になる。
「けど、ママだって、そう思うんでしょう? 水月さんて・・・」
「いいや、違うよ、真雪。ママは思ってるんじゃない。知ってるんだ。あの人が街を出てった時をね。数回しか見たことはないけど、あの人「天姫」だったからよく覚えてる」
「やっぱりそうなの!?」
母親からやっと言質を取って真雪はつい声が大きくなった。
天家であるヤン家と、天姫は血は繋がってないが天家の眷族ととられる。
「まあ、こんな地の果てで再会するとは思わなかったけどね」
「ママ、イゼルローンは地の果てじゃないよ・・・」
「地の果てなんだよ、ヤン家の概念じゃね。どこよりも、街から遠い場所だよ」
「そう、なの?」
「まあ、なんせ、気づかない美時がバカなんだ。ほっとこう♪」
うきうきと云う母に、流石に真雪も否定できなかった。
知識はあるのに気づかない。それを街ではバカというのだ。

「あら。気づいていなかったんですね、美時様」
「それも、女神様の思し召しさ」
後日、まだおやつ時にも早い時間に一人水月にやってきたヤンは、笑い話として披露する。
店主は気まぐれに、たまにサボらせてくれる。昼はどこも営業していないので、このフロア自体が早朝のオフィス街のように静かで気に入っているが、水月が同席するのは珍しかった。
「女神様の愛情と祝福は絶え間なく人々にそそがれる。ですか」
「ああ」
「美時様と少し話しをしましたわ。月下の住民はお伽話の登場人物だと・・・」
苦笑とともに言われた言葉に、ヤンも薄く笑みを浮かべた。なぜならそれが事実だからだ。
再会してから、・・・まぁ、再会と呼べるような知り合いでもないのだが、もっぱら酒を呑むだけで、会話をすることは避けていた。ましてや街の話は。
とうとう、地獄の釜を開けるときが来たようだ。
「祝福されし神の都月下街。その中でも女神の加護篤き天姫。それが私の配役でした」
低くなった水月の声に、ヤンは頬杖をついたまま目を閉じる。
「いもしない女神様の加護篤き天姫。私にはそれが耐えられなかった。天姫が輝くのは女神様の加護なんかじゃない。すべての妓女が敬い奉って、頭を下げるから。周りの人間がよってたかってそう仕立て上げるから。さも大事そうに街の奥に隠されて育てられるから。すべて演出の結果です」
怒りをこめた声に、ヤンがゆっくりと目をあける。
「そう、云わないでよ。あなたは正しく天姫だった。月下一の美妓だったじゃないか」
街全体の花代の半分を一人で稼ぐといわれる、ただ一人に与えられる称号だ。その美しさをヤンは今でも覚えている。
夜に浮かび上がる絢爛たる明かり。まばゆく、輝かしく、奢侈で、鮮やか。驕慢な笑みを浮かべ、その中で咲き誇っていた美しい芙蓉花。誇り高く、特に歌舞音曲の才に優れ、百年に一度の天才と讃えられ、また、自身もその才によく応えた。
「あなたは天姫、街一番の妓女だった。月下一ということは、フェザーン一、つまり、宇宙一だよ。この世にフェザーン以上の歓楽街なんてないんだから」
そんなこと、当時の彼女には云われるまでもないことだったろうが。
「ええ、そうです。仰々しい舞台装置をはずしたら、宇宙一の妓女もただの女です」
「そう、そういうこと。街から出れば、残るのはその人自身だ。あなたの美しさと誇り高さは、誰にも損なえやしないよ」
「・・・っ!」
水月は咄嗟に声が詰まった。
その言葉は、怒りの炎くすぶる彼女の胸にもまっすぐに届いた。
賞賛は確かに喜びとして深く突き刺さったが、その言葉は彼女にとってナイフだった。傷口から血が溢れ、痛みに顔をしかめる。
「あなたから、そんなセリフが聞けるなんて。女神様は偉大ですね」
「信じてないんじゃなかったの?」
なぜといって、水月はこの男、ヤン・ウェンリーが大嫌いだった。街にいたときから十も下の子供が憎くてたまらなかった。ヤンさえいなければ、彼女は辛かったとしても天姫としての役目を全うしていただろう。
百年の歌舞の才を持つ、世に並びなき天姫として。
「美しいだけの女に、天姫は勤まりませんわ。私は天姫になるには気性が激しすぎた。自分でも知っていたんです。逃げ出してよかったと今でも思います。私のような「ハズレ」の後には「大当たり」がよく出るそうです。聞けば今の天姫は「大当たり」の上にもう一つ大がつくようらしいじゃありませんか」
いつの間にか喋り方が、天姫だった頃に戻っている。気づいてヤンは一人苦笑した。
「あなたは、天姫らしい天姫ではなかったかもしれないけど。私がみた最初の天姫だから、私にとっては、あなたが天姫の基準だよ」
「それでも、天姫は、「夢のような女性」ですから、現実そのものの私には、本当に向いてなかったんですわ」
「向いていない・・・か」
云って、話題を終わらせようとした水月だったが、その一言に、ヤンは少し考え込む顔になった。
「向いてない。ウチの息子なんだけど、あの子は本当に街に向いてないんだよね」
「美時様、ですか? 確かに、街では珍しい性格ですわね。女性慣れしているのにどこかおっとりしていて。けれどあの性格、街では本当に王子様に見えましてよ」
「うん、呑気というか、生真面目というか、クールぶってて凄く面白いんだけど、やっぱり向いてないんだ」
「母親」がばっさりと切り捨てる。
「だから、心配なのは娘のほうでね」
水月がいぶかしげな顔を向ける。
「あの娘は向いてるんだよ。月下街そのものと云ってもいい。典型的な街の子供なんだ。だから、真雪の方が弱い」
先をうながす眼差しの水月に、うん、と一つ頷いて。
「美時は割りと昔から、自分が向いていないと気づいてた。だから自分が街で何をするか、何をしたいか、どの立ち位置に自分を持っていけば街で生きていけるかをあの子はずっと考えてた。だから、この先何があっても考える要素が増えるだけで、大して困りはしないだろう。けど、真雪はねえ。息をするより簡単に街に適応してるんだ。全身全霊で街に馴染んでる。だから、もろいんだよ。環境変化に弱い。自分というものを置き去りに成長してきた」
「・・・」
「あの子は、そのうち、街を飛び出すかもしれないな。まあ、旅の空で生きるのはヤン家の本能だし。ヤン家が続くなら、あの子が当主だって私はかまわなかったんだ」
「けれど、たしか真雪様は・・・」
「ああ。あの子は天家の瞳を持ってないけど、別にいいよ。あの瞳を持ってない当主は、少なくとも五人はいるんだから」
「え?」
「あなたも・・・天姫も忘れたのかい? あの拘束の瞳を持った当主は、確か、7代目が最初だ。そのあとあの瞳が安定してでてくるまで、百年以上かかってる。別に真雪がもってなくても問題ないさ。ただ単にこの瞳は生き残りやすいってだけで、ヤン家の証でもなんでもないんだから」
「私も天姫でしたから、ヤン家の歴史は叩き込まれましたけれど、流石に先史時代は詳しく教えられてはいません、ね」
故郷の谷に文字が入ってきたのは、ヤン家が生まれる少し前らしい。そのあと大分たって谷の出来事をつづり始めたので、確かに七代目あたりはまだ先史時代といって差し支えない。それより昔は口伝を文字にしたもので、歴史的におかしな記述も多い。
いや、ヤンだって、自分たちの記述が300年後に見ればつじつまがあってない自覚はある。多分ご先祖様たちだって似たようなことやってたのだ、きっと。
「だからかな、たまに娘の心は動作不良を起こすんだ。それを見ると、軍をやめてでも、ヤン家の空の下に連れて行ってやればよかったと、たまに、後悔する、かな」
珍しく、本当に珍しく親のようなことを呟いたヤンだったが、静かに見つめていた水月が、ゆっくりと口を開いた。
「私が、街をでて、驚いたことが一つあるんです」
「うん?」
「何処へいっても、春を売るものと、酒を売るものは、月下街を知っているんです。そして、柳の守護者、ヤン家の伝説を。ヤン家は道と、そのかたわらの柳を守るもの。柳の下で、春と酒を商うものを守ってくださると。あなたが初めてこの店に来たとき、していただきました。あなたに同じことを云って、酒を差し出したものが、他に誰もいませんでしたか?」
「いや・・・、確かに、何度かあるけど、誰でもってのは飛躍したハナシじゃないかい?」
「いいえ、あの問答は何年かこの世界で働いたものなら、誰でも知っているんです。それを悪用するものもいるかもしれませんが・・・あの問答と一緒に、天家がくれば扉を開けた瞬間にそれとわかる。という伝説は、驚くほど多くの人が知っていたんです」
水月はまっすぐにヤンを見つめた。
「もし、この代でヤン家がなくなったとしても、この伝説はまだ長い時を生きるでしょう。天家が歩いてきた道は、それほど長いんです」
「いったい、どこのちり緬問屋だい? けど、なら、なおさら、あの子には見せてあげたかったかな・・・あの空の、青さを」
「私が街を出ていくとき、ばば様たちの一人が言いました。「思考は女神様が命と同様に我ら小さき人の子にお許しになったもの、なればお前の行動も女神様の目で見れば正しいのだ」と」
「そうかい・・」
ヤンはどこか悔しそうに笑った。
水月も当時はそういわれて屈辱に奥歯をかみ締めるだけだった。才に溢れる彼女が、認められて悔しいと感じたのはあれが初めてだった。
けれど、今では、ばばたちの心が少しわかる。
「それに、真雪様だってお小さくはないのですから、ご自分でそれを見に行くかもしれませんよ」
「まあ、そうだね。確かに、親のわがままかもねぇ」
ほろ苦い表情に、思わず水月がクスクスと笑い出した。
「ほんとうに、あの小さかったあなたが、大きくなられましたこと。すっかり親の顔ですね。あなたが一番典型的なヤン家ですわ」
「典型的、かい? そうかな? 今はこうして定住してるし」
「飛び出したきり、いつ街に戻るかわからない。冷淡で残酷でどれほど愛されても愛はかえさない。そのくせ身内には愛情深くて・・・、大恋愛体質」
「・・・それをいわれると、あまり反論できないな」
特に最後の一つ。洒落にならない。
遺伝子と運命は八割以上が勘違いと勘違いと勘違いと偶然だと鼻で笑うヤンにも、否定できないほうの二割のうちだった。頭が悪い遺伝子なんて、育て方の問題だろう。
「大恋愛」体質、それは既に千年以上前にヤン家の遺伝形質と証明終了されている事実だった。残念極まりない。
大体それを否定すると、まず「夫」との関係を清算しなくちゃならない。冗談じゃないよ、ふざけんな、却下。逆証明終了。
ご先祖様の誰かが、中恋愛か、小恋愛とかで我慢してくれればよかったのに。
いや、二、三人、いてもただの例外だけど。
ハナシを聞くだけで、父のルーシェンも、伯父のタイロンも、祖父のシンレンも例外なく最高に派手でドラマチックな大恋愛だ。もてる全てをつぎ込んで愛す。それがヤン家だ。
愛されても愛を返さないんじゃない。返す愛が残ってないだけだ。気にするな。

「そういえば、ばば様たちにこうも云われました。「街を出ても、女神様は常に我らのかたわらにいらっしゃる」と」
ヤンは頭をかいて誤魔化そうとして、失敗した。
「あなたは、女神様を信じているんですね?」
その仕草に指摘されてヤンは苦笑した。左手の顔の高さに上げ、甲を彼女に向ける。
「こう見えて「卒業生」だからね。女神様が「人に作られた神」だと知っていても、彼女に会わずには卒業できないんだよ」
「そうでしたか、私は学府に通っていないので、どういう仕組みかはわかりませんが。けれど、違いますよ。女神様は「人に作られた神」ではなく、「人に設定された神」です。ほかのどの宗教の神々とも同じですわ」
妓女で学府に通う者は滅多にいない。
「ああ、そうだった。ゴメン。けど、だから、知ってる。街からは逃げられても、女神様からは逃げられないよ」
彼女も実感として知っていた。水月が逃げたのは、街からではなくヤンからだった。彼女にとっては恐怖以外の何者でもなかったからだ。そして、街からでて、ようやく女神が常に共にある。という言葉を実感した。
生きている限り、逃げ出せないのだ。彼らの信ずる、いや、信じたくはない女神からは。
「私は、あなたの舞が大好きだったよ」
水月も知っていた。それほど彼女の舞いは、子供の目からみても明らかに美しかった。そうでなければ、あれほど目を輝かせて見はしない。
彼女は舞を愛していた。彼女の舞は愛されていた。けれどそれが何ほどだというのだろう。
彼女は百年に一度といわれた才をすべて捨てて街を出た。もうかつてのように歌うことも、舞うことも、奏でることもない。
加齢ではない。あのまま毎日を積み重ねていれば、今は当時よりはるかにその才を磨き、輝かせていただろう。それを全部捨ててきた。
いや、と、水月の瞳はアルコーブに飾られた琴に向けられる。
美しい細工は当時と変わらず輝いている。もう彼女の手は奏でることはできないが、それでも手入れだけはやめられない。今も美しい音がでることは、美時が教えてくれた。
彼女が街からただ一つ持ち出したもの。手放せなかったもの。
美しい音が鳴るだけでなく、細工も名工の手になる芸術品。売れば家が一軒建つ値段だ。
けれど今に至るまで手放せなかった名器、銘を「水月姫」。己が名を捨てても、彼女だけは手放せなかった。
「女神様は常に側にあられる。街にいる時はただ煩わしいだけの言葉でした。常に監視され、拘束されて誰が嬉しいものかと思っていました。けれど、街をでて、女神様の暖かい眼差しを感じるんです」
「・・・、それは多分、あなたが、女神様に恥じない、あなた自身の人生を歩んでいるからだと思うよ」
「嫌でたまらなくて逃げ出した、辛いだけの故郷でしたけれど、街を出て、迷ったとき、困難に直面したとき、助けてくれたのは、街で教わったことでした。哀しいとき、悔しいとき、私の心を励まし、勇気付けてくれたのは、街での思い出、人々の言葉、あの誇り高い街で生まれ育ったという事実でした」
「・・・・・・」
「月下街で生まれ育ったことを、今では誇りに思っています。女神様の加護篤き夢の国を演じ続けるあの街を」
「二度と、帰らなくても?」
「ええ、故郷は離れて見たほうが恰好良く見えるものですから」
「ふるさとは遠きにありておもうもの、そして悲しくうたうもの」
「よしやうらぶれて、異土の乞食となるとても、帰るところにあるまじや、ですね」
「金沢三文豪の一人、室生犀星だね」
「・・・・・・・・、そのデータ、必要ですか?」
あえて突っ込んだ水月に、ヤンは優しく苦い笑みをうかべた。
「出典云うとインテリっぽく見えるって、昔どっかの船長が云ってたんだよ」
「・・・そうですか」
水月も、かすかに悲しげな笑みを浮かべる。
雨だれの音を聞くような、優しい午後の沈黙が流れた。
ふいに、水月は透明な眼差しでヤンを見て微笑んだ。
「私も、あなたの舞が大好きでした。神楽師様」
どれほど、恐怖と嫉妬と絶望にくれようとも。

奉納舞を飾れるのは街一番の舞の名手だ。天姫ではない。
けれど彼女は、十の時から他の者に譲ったことはなかった。
勤めを終えて、ほんわり上気した彼女が見たのは、先の奉納舞にはしゃぐ子供が、その振り付けを真似て一節なぞる光景だった。
周りの子供は無邪気に喜んでいるが、なまじ他を寄せ付けない才能に恵まれた彼女は、誰より先にその姿に気づいた。
そして子供も、美しい天姫が修羅の形相で恐怖の悲鳴をあげたところを見ていたのだ。

懐かしい一瞬が二人の脳裏をよぎった。
それ以来、彼女は一振りも舞を舞えなくなったのだ。
「それでも、あなたは今でも神楽師ですから」
水月は微かだが覚えている。彼も昔はこんなぎこちない動作や歩き方をしてはいなかった。
違和感を感じるのは、それでも彼女に舞の才があるからなのだろうか?
水月には今でもヤンが女神の手を振り払って逃げ続けているのが見えた。
彼は、今一度女神を受け入れさえすれば、この瞬間にでも神楽師に戻れる。
「街からは逃げられても、女神様からは逃げられない」
ヤンと水月。二人とも、歌舞音曲の才と愛するもの全てから逃げて街を出てきた。
女神様からは逃げられない。
「けれど、まだ、・・・ねぇ」
むかえに来たのは双子だった。けれど、まだ、もう少し逃げたい。
ヤンは、ようやっと腰をあげた。
「あなたが、私の顔を見たくないのは知ってるよ、今まで意地悪して悪かったね」
「・・、いいえ、それでもあなたはヤン家の方ですもの。柳の下を守る者。見守って、くださったんでしょう?」
彼女が、過去を一つ乗り越えるのを。
「役に立ったのは息子だったけどね」
彼が何気なく弾いた故郷の歌は、彼女から呪縛を一つ取り去った。
「けれど、その時がくるまで、見ていてくださいましたから」
何年ぶりに聞いた故郷の歌だっただろう。泣きながら、人知れず彼女は受け入れたのだ。
どれほど、恐怖と嫉妬と絶望にくれようとも月下に生まれた者は、その神楽師と、そしてその神楽舞を愛さずにはいられない。
20年前に流し損ねた涙は、歳月に磨かれ、澄んで美しかった。

そして、
  カラン〜
「いらっしゃいま・・・え?」
「えええ!?」
派手な銀髪の男がだれか、水月にはすぐにわかった。
そして男も驚いて彼女を見ると、バーの外に走って看板を確認し、連れてきた息子を見直し、そしてもう一度彼女を見やって呆れた笑い声をあげた。
「お前ら、こんな地の果てでなにやってんだよ!」
しかし、次の水月の行動はまったくの無意識だった。
酒杯を用意し、にっこりと輝くような笑みを浮かべ、男に差し出したのだ。
「お帰りなさい、ルーシェン」
銀髪のルーシェンはまたも驚いた顔をしたが、魅力的な笑みを浮かべ杯を受けた。
「ありがとう、天姫」
ほぼ全てが形骸と化した天家と天姫の間柄で、ただ一つだけ確固として残った関係。
ヤンは、実際にこの目でみるのは初めてだった。
が、そこで呪縛が解けた水月の完璧な笑顔が崩れた。額に大きく怒りマークで。

「どのツラ下げてきた、このボンクラ当主!!!」

「ぼっ、ボンクラ当主・・・父さん・・」
水月の的を射た発言に息子は吹き出し、記憶が戻ったばかりの当主は飛んできたタンブラーをよけてケタケタ笑っている。
「で、なんでこんなトコで旧交を暖めてんの、お前ら?」
「女神様からは逃げられないからだよ」
「女神様からは逃げられないからです」
酷寒の眼差しで二人同時にいわれて、ルーシェンも苦笑する。
まったくもってその通りだからだ。
「まあいいや。今日はいい日だ、気分がいいや。こーちゃん、おかわり!」
「こーちゃんて呼ぶな! 嫌いなんですよ、知ってるでしょう当主っ!!」
美しくも恐ろしい眼差しで水月がくってかかる。
天家と天姫がこんな・・・・・・・ファンキーな関係だとはしらなかった。
「水月と父さんて、仲・・・よくなかったんだねえ」
「水月! お前今水月っての、こーちゃん。に、似合わねえにも、ホドがあるだろ!」
天家当主は腹を抱えて爆笑している。
「やかましい! このボケ当主!!」
「その美貌は月花大神の写し絵の如しといわれたこーちゃんが水月! ちょっとずうずうしくね?」
「水にうつった地上の月、で、間違いではないんじゃない?」
一応息子が首をかしげるが、水月とたいして年のかわらないルーシェンはばっさりと切り捨てる。
「いや、それにしたって字面ってモンがあんだろ。ちょっとナヨすぎるぜ。せめて火月だろ」
「嫌だ! もう、さっさと帰って本物の天姫に酌してもらえ!!」
天姫の口が悪くなるのは、天家当主が悪いんだろうか・・・、ヤンは天姫にそれほど夢を抱いてはいなかったが、なんとなく月下街でこの光景を見なくてよかった。と思った。
怒れば怒るほど美しい水月はどんどん怒っているし、ルーシェンはますます爆笑している。
女神様から逃げまくった地の果てで、こんなのも幸せのうちなのかもしれない。
「ハハハハハ、何から逃げても自分からは逃げられねぇよなぁ!」
機嫌よく爆笑した当主に、
酷寒の目をした水月と息子が、全力でぶん殴って蹴りを入れた。
折角そこ誤魔化して喋ってたのに!

けれど、そう、女神様と自分からは逃げられないのだ。


眠らない街の終わらない夢、第参話の下に続く?
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