ヘブンリー
目に優しい萌黄色のドレスを濃い茶のレースで飾った簡素な外出着。
しかし軍服だらけのむさくるしい元帥府には充分すぎるほど華やかな。
「クレーフェ伯爵家のソーフィア・フォン・クレーフェと申しますわ。マリーンドルフ伯爵家のヒルダさんにお会いしとうございますの」
そのご婦人の来訪を知ったのは、たまたまヒルダとラインハルト。それにオーベルシュタインが同席している時だった。
「ソーニャ様が!?」
ヒルダが驚きのあまり立ち上がり、上ずった声で頼む。
「すぐにお通ししてください」
リップシュタット盟約が公になってからというもの、身分の上下、様々な貴族がヒルダの元にやってきたが、彼女のこの驚きようは今までにないものである。
「クレーフェ家のソーニャ様というと、あの「紅のソーニャ姫」・・・?」
さらに驚いたことに、義眼を瞠ってオーベルシュタインが呟いた。しかしその名称はヒルダの耳にはなじまなかった様子で年相応に首を傾げている。
「紅の? なんですかそれは?」
「ああ、君のような若い方は知らないのだな。だが・・・」
まぶたを伏せたオーベルシュタインだが、熱が奥に籠った声でまっすぐにヒルダに請う。
「今回だけ、同席してもよいだろうか? フロイライン。決してお邪魔はしないと誓う」
「えっ? はい・・・」
「おい、オーベルシュタイン?」
ラインハルトの問う眼差しでやっとわれに帰るオーベルシュタイン。
「ローエングラム候、この方だけは会っておかれても損はないかと思います。帝国貴族数千家の中でも、ある意味もっとも特異な方ですから」
「クレーフェ伯爵家は初代ルドルフ大帝の時代から続く、由緒正しい家柄です。特に広大な領地だとか、特に有力な縁戚であるとかはないのですが、伯爵夫人ソーニャ様のお人柄で身分を問わず女性の貴族から絶大な信頼を得ていらっしゃる方です。お名前の読みは特別にルドルフ大帝からお許しを頂いた変わった名前だときいています」
「・・・・・・、それでドコが特異なのだ?」
つらつらと語ったヒルダとラインハルトが問う眼差しを義眼に向ける。
「ヴェストパーレ男爵夫人が第二の母と慕っているだけで充分特異と申せましょうが」
「げっ」
故・ベーネミュンテ公爵夫人の次に苦手な貴族の名前を出され、ラインハルトが思わず引くが、続けて彼の口から出てきた名前はもっと嫌いな相手の名前だった。
「帝国社交界で当時もっとも有名な話でした。彼女は未婚の母でして、平民ではなく貴族の未婚の母というのは、帝国史でも類を見ず・・・まぁ表立ってはという話ですが・・・フリードリヒ四世の乳兄弟ということで随分な騒ぎになりました。一応DNA鑑定の結果は違っておりましたが、父親はわからずじまいです。頑として口を割らず外見の割りに恋には熱いといわれ、「紅のソーニャ」と呼ばれたのだよ」
最後はヒルダに言った。
「あの、「あの」ソーニャ様がですか!? 信じられません・・・」
ヒルダが本当に信じられずに目を丸くする。
「まぁ、それはただの醜聞ですが、・・・フリードリヒ四世の乳兄弟で親しくしていた彼女がわざわざこちらの陣営にくるのは・・・気にしたほうがよいかもしれません」
「まぁあ、はじめまして。ローエングラム侯爵様」
クリームたっぷりの珈琲を飲んでいた手を止めて、立ち上がって挨拶する。
「ソーフィア・フォン・クレーフェ伯爵夫人と申しますの。お会いできてうれしゅうございますわ。どうぞソーニャと呼んでくださいまし」
ぱちくりとラインハルトは驚く。これは確かに、初めて見る種類の貴族だ。
こんなに感じの良い令夫人をみたことがない。なるほどあらかじめオーベルシュタインに云われていなければ無条件に信じてしまっていたに違いない。胸に暖かなものが満ちる。
「ヒルダさんも、お久しぶりですわ。お元気にしてらして?」
「はいっ。ソーニャ様も相変わらずお美しくて・・・」
「まぁ、こんなおばあちゃんを嬉しがらせますのね。ありがとうございます」
おばあちゃん、と、美しい、どちらも正解だった。
年老いることが美しい。そんな実例をハルトははじめてみた。
フリードリヒ四世と幼馴染だったとあれば、60をこえたあたりだろう。けれどその年齢ならば美容技術も発達している昨今、20代に見せることも可能なのに・・・。
ハルトはらしくもなく思ったまま口にしていた。
「確かに、それらしく見せかけることは出来ますけれど、変わらないことはそんなに良いことですかしら? 姿かたちも、髪の色も、肌の色さえ年を重ねると共にかわりますわ。それにあわせて、色合いや形をどうしようかしらと装いを凝らすのは、それは楽しいのですよ」
まるでその微笑はあたたかい陽だまりのように、素朴な16歳の少女のようであり、全てを包み込む慈母のようでもあった。
「ところで、本日いらっしゃった用件をお伺いしてもかまわないだろうか」
ラインハルトは自分が微笑んでいることを知らなかった。
「クレーフェ伯爵家は今度の内乱で、ローエングラム元帥の陣営に入れて頂きたいのですわ」
「それは一人でも味方が欲しいこのときですから、喜んで」
「ソーニャ様がお味方くださればこの内乱は随分勝ちやすくなります。確実に全貴族女性の支持はリップシュタット同盟から離れますものっ」
「まぁぁ、そんな大げさなものかしら?」
興奮してヒルダが言うが、ソーニャは呑気に微笑んでいる。
「わ、私も実は不安だったんです。父は許してくれましたし、自分の判断も信じていましたが、ソーニャ様がきてくださって、う、嬉しいです」
気丈なヒルダに涙が浮かぶ。
そばにいるだけで感じる、優しさ、柔らかさ、あたたかさ。言葉に言い尽くせない安堵。
それはまるで「母」のような。
「まぁ、ヒルダさん。心細かったのね無理も無いわ大人の男の人ばかりなところに一人だものね。そうだわ。今夜お夕食を一緒に食べましょう。あなたのお好きなパンナコッタをデザートに出すわ」
「はいっ、はい。是非。ソーニャ様」
その花びらのような唇に浮かぶ優しい色に。ヒルダは涙をぬぐって笑顔になる。
本当にこの人は、まるで風景画のように優しく美しい。
「ところで、あなたがこちらの陣営を選んだ理由をお聞きしてもよろしいか?」
邪魔にならないだけの間をとってから、ラインハルトが精一杯やさしく問う。
「ふふふ、アンネローゼさんから聞いていた通りの方ね。意志が強くてとても優しい子だと。わたくしあの方大好きなのですのよ」
「あ、姉と・・・」
ラインハルトは一瞬怯んだが、ソーニャは気にせずより笑顔を深めた。
「わたくしがここに来たのは、フリードリヒお兄様、・・・マイン・カイザーが生前、言っておられたからですわ。あなたは勝つ人間だと。負けなくは無いしかし必ず勝つと。ご存知かもしれませんけど、陛下とは乳兄弟で何かと目をかけていただいておりましたのよ。本当の妹のように」
珈琲カップを見つめながら楚々と微笑む。
「誰よりも明敏で英邁だったお兄様ですもの。あなたなら貴族連合に勝てると思ったからですわ」
「あっ、貴方は本当にフリードリヒ四世が明敏で英邁だったというのか! 在位中から灰色の皇帝といわれたあの男が」
不敬罪も思わずつい言ってしまったラインハルトだが、ソーニャはそのアイスブルーの瞳をみて微笑むだけだ。そんな様子に思わずオーベルシュタインが口を開いていた。
「あなたは何かご存知なのか? フリードリヒ四世の私設組織「七つの大罪」は実在したのか!?」
「七つの大罪・・・」
おっとりとソーニャが繰り返す。眼光鋭く問い詰めるオーベルシュタインにも動じた様子もない。
「ええ、その言葉は聞いたことがございますわ。リヒャルト様と何かやっていたらしくは思うのですが、わたくしはお茶を飲みに行っていただけなので、詳しくはしりませんわ」
リヒャルト・フォン・グリンメルスハウゼン。ラインハルトにはイマイチ忘れにくい男だった。
「グリンメスルハウゼン提督と、フリードリヒ四世が?」
「その件ではお力にはなれませんが、もう一つ・・・『ヘヴンリー、それは絶対なる破壊への意志』」
オーベルシュタインの反応はこのときこそ顕著だった。
「『天地創造』!あなたがあの反政府グループのメンバーだったのか!」
「正式なメンバーではございませんでした。ただ、あの。その・・・」
みるみるうちにソーニャの顔が赤らんでいく。
「ただ、わたくしのお慕いしている方がそのメンバーでしたので、わたくしもそれなりに協力しておりました」
「まさか、貴方の息子さんの父親というのが。だから人には言えなかった?」
「あ、あの、昔からわたくしが陰ながらお慕いしているだけで、その・・・」
「あの、そんなに簡単に反政府組織だと名乗ってもいいのか?」
ソーニャは小首をかしげて考えていたが、やがて軽く首を振った。
「ヘヴンリーの意志は帝国隅々のいたるところまで存在しております。自分がそうだと気づく人も気づかない人もいます、だからあまり関係があるとは思いません。
ローエングラム侯爵、お願いにまいりました。どうかこの戦争を終わらせてくださいまし。この度の内乱だけでなく。フリープラネッツとの戦争も。一分でも一秒でも早くです。その思いでヘヴンリーの意志に協力しておりました」
祈るような眼差しでソーニャの萌黄色の瞳がラインハルトを見つめる。
「この戦争が終わりましたら、わたくしが知っているヘヴンリーのことを全てお話できます。わたくしができることはそれぐらいですわ。あと、もう一つだけお願いがあるのですけれど」
ソーニャは物怖じすることなく穏やかに自分の望みを告げた。
「ご存知ないかもしれませんが、わたくしには子供が一人しかおりません。その息子もフェザーンに帰化しましたので、クレーフェ伯爵家はわたくしで最後です。この際ですし、いっそのこと解体いたしまして領地を領民に分けたいと思っておりますの。先祖代々お世話になった方々ですし、土地です。わたくしの手でやりたいのでございますけれど、許可をいただけますか? 何か、都合のいい名目をつけて任命していただきたいと思いましたのよ。書類一枚で効率が違うものですから」
ふわりと浅く腰掛ける老婦人に嘘はなく、すがすがしく微笑んでいた。
「あなたの望みがそれだけだとおっしゃるなら、文書にして後日提出させていただくが・・・」
ラインハルトはまだ戸惑い顔を隠せない。
「フリードリヒ四世は、一体何者だったのだ?」
「ああ、「七つの大罪」ですか? 色欲、傲慢、暴食、嫉妬、貪欲、憤怒、怠惰の七つですわ。お兄様、悪ぶるのがお好きでしたから。何かの洒落だったかとわたくしなんかは思っておりますのよ」
「伝説の「七つの大罪」は超頭脳機関だったと聞いているが」
威圧感のあるオーベルシュタインの声にも笑顔で答える。
「それこそ都市伝説のたぐいでしょう? なんだか誤解なさっておいでのようだから、そのうちお兄様がどんなにお茶目さんだったかも教えてさしあげますわ」
「年寄り臭さ」を一切感じさせない挙措でふわりとソーニャが立ち上がる。
「さてさて、長居をしてしまいました。こんなに長くお時間をとらせるつもりはございませんでしたのよ。お会いできてうれしゅうございました。またお会いできる機会を楽しみにしておりますわ」
「げっ、ソーニャ小母上?」
「あらオスカーさん、お久しぶりですね。お元気でしたかしら?」
ソーニャを送り出した廊下で偶然鉢合わせた。
逃げ腰になったロイエンタールにラインハルトや連れ立っていたミッターマイヤーはじめ全員が驚く。
思わず逃げかけたが、踏みとどまってがっくりと肩を落とす。
「・・・・・・・・姫袖」
確かにソーニャの萌黄色のドレスは手の甲までレースで覆うたっぷりとした姫袖だった。帝国人にはなじみのないデザインだが、ソーニャに似合っているので誰も気にしなかったようだ。
「姫袖にプチハット・・・小母上、いくつですか」
「あら、嫌だ。似合いませんか? オスカーさん」
「いえ、わかりました。どこの誰とはいいませんが、貴方にそれが似合うと云った人間がいたようですね」
「12の時でした。初対面から素敵な紳士でいらして、憧れましたわ」
「てか、アンタなんでこんなところにいんですか。こんな時期に」
「こんな時期だからですよ。クレーフェ伯爵家をローエングラム侯爵様にお願いしてまいりましたわ」
「あなたがこんなくんだりまで出張らなくても、あなたの領地と財産ぐらい俺がどうとでもしましたものを」
見るからにロイエンタールの立場が弱くて、この男には珍しく低姿勢・・・いや、丁寧で親切だ。
「っとに。送ります。あなたをみてただ帰したんじゃどこから文句がくるかわからない」
「いいえ、結構。あなたはお仕事をしなさい。オスカーさん」
「・・・・・・」
「そして一分でも一秒でもはやくこの戦争を終わらせて、あなたのお星様に手を伸ばしなさい。あなたの大事なお星様の寿命は、長いようで短いわ」
「・・・・・・・・・・、なんのことか、わかりませんね」
「・・・。そぅ。わからないならわからなくて結構よ。けれどたまにはわたくしの屋敷にも顔を見せに来て頂戴。最近ちっとも遊びにきてくれなくて」
「って、それはエマイユと鉢合わせるのがまずいからで、あれには何も話してないですし」
「じゃあ、エマイユがお休みの日にお茶会に呼ぶわ。たまにゆっくりお話もしたいのよ」
「・・、わかりましたよ」
「あまり良いお返事ではないわね。あなたのお星様のこと、ゆっくりじっくり話さなくてはね」
「・・・・ 」
「あら、オスカーさん、今まさか「うっせ、ババア」なんてゆってませんよね?」
「滅相もございません、ソーニャ小母上」
「『ヘヴンリー』」
「?」
「いいえ、なんでもないのよ。お仕事をしなさい、オスカーさん」
「? ええ」
ソーニャは丸ごと満足してにっこりにこにこと笑顔で元帥府から出てきた。
来たときと同じように、空は青く晴れ渡っている。
アンネローゼを訪ねるつもりだったが、このまま歩いていくのもよさそうだ。
ソーニャは青空に微笑んで、そっと口の端にのせた。
「『ヘヴンリー、それは絶対なる破壊への意志』」
(ええ、破壊してください。この帝国を。ゴールデンバウム王朝を。お願いしますね、ローエングラム侯爵。ヘヴンリーの意志のままに)
ヘヴンリー、フリードリヒ・フォン・ゴールデンバウムの望みのままに。